佛跡巡拝
 
 4年前の二月下旬、十四名で印度佛跡巡拝に出掛けた。私にとってはこれが三回目の聖地巡礼になる。第一回目は三十年前に遡り、私が僧堂を引いて鎌倉の寺に住職して間もなく、知人から誘われて参加した。二回目は十五年前、瑞龍寺の伽藍が完成した折りの記念旅行であった。そして三回目は般若会二十周年行事として企画した。今回行って感じた事は、お釈迦様の聖地が点在する北インド一帯はこの三十年間全く変化がないということであった。印度の中でも最も貧しいこの地方では、雲霞の如く寄ってくる物乞いや、蝿が鼻先を飛び回るような強引な物売りなど少しも変わっていない。私は既に三度も訪れているから、最初の頃の強烈な印象は大分薄れてしまったが、それでもこの猥雑さとばさばさした感じは相変わらずであった。

 さて今回の旅の目的は、お釈迦様が悟りをひらかれた同じ場所、同じ時刻に坐禅を組むという、いわば 「般若会印度ブッダガヤ出張坐禅」である。当日は午前五時に起床し、現場に向かった。高さ五十数メートルの大塔の裏側にある菩提樹と金剛寶座の近くに場所を確保し凡そ一時間、さほど寒いくもなく気持ちよく坐禅を組むことが出来た。その後、無門関「世尊拈華」 の則で有名な霊鷲山や、悟りをひらかれてから最初に五人の弟子に説法されたサルナート、ガンジス河の沐浴風景などを見学し、九日間の彿跡巡拝旅行は無事円成した。
  ところで私にとっては何といっても第一回目の印度旅行が一番印象深い。生まれて初めての海外旅行だったことや、僧堂へ通参している最中で、一月の臘八大接心が終わった直後の強行軍だったことなど、今から思えば何もかも初めてづくしであった。最初に到着したのは夜の十時過ぎ、閑散としたカルカッタ空港であった。印度と言えば暑いところと決めてかかっていたが意外と小寒かった。迎えのバスは日本では想像もつかないボ口車で、穴だらけの悪路をガタガタと揺られながら市内に向かった。窓外に目を凝らすと殆ど真っ暗闇で、時折数人の男達が焚き火を囲んでいるのが伺われた。それはまるで石器時代に逆戻りしたような印象であった。暫くして市内に入ったが、既に商店街はどこもシャッターが下ろされ、薄暗い街頭に照らされて何やら黒っぽい物が歩道を埋め尽くしている。初めはその正体が分からなかったがよくよく見るうちそれが人間だと解った。焚き火をするほどの寒さの中、コンクリートの舗道に何十万人もの人がそのまま横たわっているのである。街中を埋め尽くすこの情景を目の当たりにした時、同じ地球上に今尚この様な日々を過ごしている人間が居るのだということに激しいカルチャーショックを受けた。間もなくバスは宿泊するホテルの前に到着した。すると添乗員が、「これからバスを降りて頂きますが、皆さんは手荷物を胸にしっかりと抱えて、脇目も振らず兎も角ホテルの中に突進して下さい。一歩バスを降りるともの凄い数の物乞いが寄ってきますが、きょろきょろせずに一気に走り抜けて下さい。ドアーの内側に入ってしまえば後は安心ですから。」と言った。案の定一人目の者が降りるとわっと何十人もの物乞いが手を差し出して寄ってきた。これは凄まじいことになってきたと思った。私も真っ直ぐ前を向いて駆け足でホテルに飛び込んだが、此処ではドアー一枚が天国と地獄の境目なのである。ホテルはイギリス統治時代に建てられたもので、内部の床は全て大理石が敷き詰められ、天井には豪華なシャンデリアが下がり、キラキラと輝いていた。そのドアー一枚隔てた一歩外はこの有様なのである。その余りにも激しい貧富の差に唖然とした。
お釈迦様の居られたこの国の惨憺たる現状を知り、これを何とかするのが今最も重要なことなのではないかと思わずにはいられなかった。この時我々は八大聖地をお詣りし、最後にはスリランカまで足を伸ばしたが、この二十一日間に及ぶ壮大な旅の間中、私の心の中にこの事が消えることはなかった。

 第二回目の時もカルカッタに寄ったが、この時はおもにバングラデシュからの膨大な数の難民が街中を埋め尽くしていた。そんな街の真ん中にマザーテレサの施設があった。此処では捨てられた赤ちゃんを引き取って育てているということだった。四階建てのビルの部屋という部屋には小さな子供達が何百人も居て、それを若いシスターが世話をしていた。粗末だが掃除の行き届いた清潔感溢れる建物と、シスターの献身的な姿はまるでそこだけが天国のように別世界に見えた。
  仏教徒としてお釈迦様の聖地をお詣りできることは本当に有り難い。しかし印度の現実の姿を見た時、何故か心から喜べない気がした。今、もしお釈迦様が居られて、この様子をご覧になったら何と仰るだろうか。旅の間中このことがずっと胸につかえていた。

 

 

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