友
 
 三月中旬、私の元で修行した者達が集まり、一夜懇親の会を設けてくれた。開催場所が嘗て七年半はど住職をした鎌倉の地だったこともあり、大変楽しみにして出掛けた。久しぶりの帰郷であったので先ずは両親の墓参りをし、最近亡くなった友人宅へも寄りお経をあげ、さらに四十年来の友人宅へも足をのばした。その友人とは十六の時からずっとご家族の方々とも親しくさせて頂いたので、亡くなられた父親の葬儀は私がした。母上一人きりになられて以降は手紙や電話の遣り取りをしていたが、現在は既に八十三歳に成り大分体も弱られた。何年か前、まだお元気だった頃には岐阜までお越し頂き、昔話に花を咲かせたこともあったが、近年は手紙を書こうにも手が震えて旨く書けないと仰り、専ら電話で話すことの方が多くなった。

友人はその家の長男で、心根は非常に優しく、私も随分親切にして貰った。大学は理工系に進み、或る大手電気メーカーの研究所に就職した。やがて恋愛結婚をし、間もなく長男も生まれ幸せな家庭を築いた。そこまでは誠に順風満帆だった。ところが暫くして会社が大不況に陥り、配置転換を余儀なくされ営業に回されたのである。彼は小さい頃から機械いじりが大好きで、凡そ営業などは性格的にも向いていないが、会社という組織の中では従わざるを得ない。ちょうどその頃、僧堂から暇を貰い彼を訪ねたことがある。或る横浜の電器店の店員のようなことをさせられていると言っていた。彼にとって全く畑違いの仕事でさぞかし切ない思いであろうと推察した。それから暫くして、一家揃って北海道の旭川営業所に転勤したと聞いた。その間どういう経緯があったのかは知らないが、元来彼は生まれも育ちも北海道だから古巣に帰ったようなものである。又新しい気分で頑張ってくれるだろうと喜んだ。
  それから数年したある日、突然彼が会社に無断で出奔し行方知れずになったと聞かされた。一体どういう事だろう、あんなに生き生きと仕事に精出していたのにと、皆目見当がつかず心配した。家族の人達と八方手を尽くしようやく彼を見つけ出したものの、結果的にこれで彼は免職になってしまった。北海道という土地柄、冬季の過酷な気候条件や厳しい営業ノルマに堪えられなくなって挫折したようであった。家族を抱えてこれからどうしたらよいか周囲は思案に暮れたが取り敢えず失業手当で食いつなぎ一年間職業訓練校に通うことになった。当時、私は既に鎌倉の寺の住職になっており、彼のところへ様子を見に出掛けたことがある。奥さんの在所近くに住まいを借り、ささやかながら一家五人幸せに暮らしていた。しかし訓練校卒業後も思うような就職先が見つからず苦労していた。一時、好きなヨットの学校で先生をしていた時期もあったが、その後福井の紙屋さんに就職し、生活も久しぶりに安定した。ところが今度は突然離婚するという話を聞いた。夫婦のことは端のものには解らない、とやかく言う積もりはなかったが、何とも理解に苦しむ経緯であった。
  それから数年経った頃再婚した。これで又新たな幸せを掴み落ち着いて仕事に励むだろうと思ったが、驚いたことに彼は現在、酒乱になって大酒飲んでは暴れ回っていると聞かされたのだ。母親にさえ殴り掛からんばかりで、「恐ろしいから部屋に鍵を掛けてじっとしているのですよ。」 と仰っていた。そんなことが続くうち当然の事ながら奥さんと娘は家を出て行き、ついに一人っきりになってしまったのだ。
  そんな状況の折、私は彼の家を訪ねたわけである。彼は私のお経が済むとすぐにビールに片手にコップを二つ握ると、「二階の俺の部屋に行こう。」 と誘った。言われるままに部屋に上がるとそこは物が雑然と散らばっており、まるで物置のようで掃除など殆どしていない。椅子に腰掛けると彼は早速ビールを注ぎ、傍らのステレオに手を伸ばした。静かな美しいクラシック音楽が流れる中、二人で沈黙のままビールを飲み続けた。ふと傍らを見ると楽譜台とチェロが立てかけてあった。老後の楽しみに最近チェロを始めたという。嘗て彼は中学生ぐらいまでピアノを習っていたので楽譜は読める。何十年も経った今、再び彼の中に音楽へ向かう気持ちが蘇ったのである。「ちょっと弾いて聞かせてくれよ。」

 と言うと、「いやいやとても人に聞かせられるようなものではないので‥‥」と謙遜した。彼の今の状況とクラシック音楽とチェロがどこでどう結びつくのかと思った。
  お互い色々なことがあって随分遠回りや寄り道もしたが、六十の手習いでチェロを弾く彼の懸命な姿を想像し、少し救われたような気がした。ちょっと剽軽で人一倍優しく思いやり深い彼本来の姿を早く取り戻し、例え一人っ切りになったとしても心安らかな日々を送って欲しいと思わずにいられなかった。

 

 

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