下化衆生
 
 三十年以上も前になるが、私は僧堂を引いて初めて鎌倉の小庵の住職になった。檀家が一軒もない寺だったので庭掃除と畑仕事を日課とし、後は毎月一週間僧堂へ修行に出掛けるという日々を過ごしていた。三年ほど経った頃、建長寺本山の宗局が入れ替わり新しい総長さんが決まった。ある時その総長さんが来られて、教学部へ入って欲しいと言ってきたのである。一端は躊躇したがこれも永年お世話になった宗門への御恩返しと思い引き受けることにした。ところがいざ勤めだして解ったことは、これは説教師さんの親玉役で、大変なことになってしまったと思った。というのも私はいたって口下手で、人前に出るとやたら上がってしまう性格であったからだ。出来るだけそういうことにならないよう念じていたのだが、物事は逃げ腰になると後を追いかけるようにやってくる。早速管長貌下の御親化が始まり、その随行を命ぜられた。

御親化とは建長寺派の寺院を管長自ら一ケ寺ずつ巡ってお詣りをし、その寺の壇信徒と親しく話し合う行事である。大抵は一日に何ケ寺も廻ることになるので管長、総長、部長を囲んでざっくばらんな茶飲み話で次ぎに移る。しかしその時の小田原地区は十ケ寺と比較的少ない寺院数だったので、二ケ寺から説教を依頼された。当然、教学の私が担当という事になり、否応なくお引き受けすることになった。
  私の師匠は何時も、「禅僧はぺちゃぺちゃ喋るな!ぺちゃぺちゃ言うのは足らんからだ。徳利でも中身が一杯詰まっているか空っぽなら幾ら振っても音はしない。しかし底の方にちょっと有るとぴちゃぴちゃと音がする。これと同じで、修行を少しかじった程度の奴が一番ベラベラ喋る。こういう安っぽい禅僧になんか成るんじゃない!」 これが口癖だった。だから教えを忠実に守り、無口が美徳と思って人前に出ることは極力避けてきた。そんなわけで私の口下手はますます加速されていった。そういう状況下でこういう仕儀となり、一応準備をしては行ったものの、正直なところ胸の内は不安で一杯、身の縮む思いであった。やがて依頼されたお寺に到着し、型通りの諷経や茶飲み話も終わりお説教という段になった。すると其れまで正面真ん中に居られた管長祝下は、「ではこれから教学部長さんの有り難い御法話がございますので皆さんと一緒に拝聴しましょう。」 と言って、私の真ん前にどかっと座られたのである。只でさえ自信がないところへこれで、気も動転し訳が分からなくなった。一般の方には理解できないかも知れないが、我々修行者にとって老師や管長は恰も雲上人のようなもので、側に居るだけでも畏まって身が固くなるものなのだ。その頃の私は一応和尚に成っていたとはいえ、現役の雲水でもあったわけで、この時の異常な緊張感は想像を絶するものだった。兎も角与えられた時間、無我夢中で話をした。しかし我ながら酷いものだった。話は支離滅裂の上、こともあろうに善男善女を前にして、丹霞天然という中国の禅僧が、いきなり本堂に上がって仏像を引きずり出し斧で割って焚き火をし、尻を焙ったという話をしてしまったのだ。どうしてこんな話になったのか今だによく解らない。人間極度に緊張するととんでもないことを口走る見本のようなものである。これにはさすがの管長も呆れかえって、「もう一ケ寺のお説教は私がさせて頂きます。」 と言われた。穴があったら入りたいとはこの事である。先方の和尚はいきなり管長猊下が話し始めたので、経緯が解らず目を丸くしていたが、兎も角その場は冷や汗を掻きながらも何とか無事に済んで帰山した。
  その夜まんじりともせず一日の出来事を思い出し失敗の原因は何であったか反省した。それは話なんかくだらん!という思いが在ったこと、また爺さん婆さん相手ならなんとでも成るわい≠ニ、高を括っていたことなどである。その頃の私は僧堂の坐禅修行が何よりも尊く、世事などどうでも良いと思っていた。それが間違いだったのだ。上求菩提下化衆生という言葉がある。宗旨の蘊奥を極め、恰も高い山の天辺で我一人潔し言うが如き澄んだ心境を得て、もう一方では娑婆世界の真っ只中にまみれながら衆生と共に生きて禅を説いてゆく。この双方が出来て初めて立派な禅僧と言えるのである。これは一からやり直さなければならないと感じた。

 その後、瑞龍寺へ転住し師家となり、以前にも増して人前で喋らなければならない立場になった。しかしあの時の大失態が私にとっては本当に良い経験になった。以前お茶会でも大恥を掻いたことがあるが、それを契機にお茶の稽古に励んだことがある。「失敗学のすすめ」(畑村洋太郎著) の中にあるように、「失敗は成功の元」、失敗こそが新たな創造を生む。お互い大いに失敗をして恥を掻き、襟を正し真撃に生きたいものである。

 

 

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