さて今から千三百年以上も前の中国の禅宗で馬祖道一禅師という方がおられる。容貌風采すこぶる奇異にして、歩くこと牛の如く視ること虎の如しと言われている。この馬祖禅師にある僧が、「仏とは何でありましょうか。」と尋ねると「非心非佛」。心にあらず仏にあらずと答えている。これは一体どういう意味であろうか。
私事になるが、十八歳の時それまで当たり前と思っていたことに大いなる疑問を持った。それはなぜこんなにガツガツと毎日受験勉強を続けなければならないのかということであった。何故なら当然良い大学に入りたいからで、では何故良い大学に入りたいかと言えば、知名度の高い大学に入れば、やがて良い会社に就職できると考えるからだ。良い会社に入って沢山給料を貰えば、良い生活が出来、良い家庭を持つこど出来る。そうなれば立派な子供も育ち、安楽な一生を送れる。そこに人生の喜びを感じ兎も角今の努力が肝心と、勉強して目的を叶えようとする。しかしそうこうしているうちに人間はやがて年をとり老いさらばえやかがては死ぬ。これを逆に辿ってみた時、結局死ぬためにあくせくしていたということになりはしないだろうか。何と空しいことかと思った。死について幾ら考えてみても、どうにもならないことはよく分かっていたが、これを置いて先へ自分は進めないと感じた。つまりこれは現世の否定である。幾ら豊かになって地位や名誉を得たとしても、そんなものが何程のものか、これも現実の否定である。このように世の中のこと全てを否定し続けてゆくと終には、何もかも嫌になって投げ出したくなる。事実、私は一時全てが空しく価値の無いように思えて投げ出し馬鹿のようになった。未成年にも拘わらず毎日のように大酒を飲みふらふらになって江ノ島の海岸をさ迷い歩いた。しかしいくらこんなことをしていても新たな解決策が見出せる訳もなく、このまま行ったら廃人に成るかもしれないと思った。そういう苦境の中からこれはひょっとして宗教に縁れば道が見えるかも知れないと感じた。今ならどんな悪い宗教に引きずり込まれていたかも知れないと思うが、当時はそんな心配もなく、本屋に行っては片っ端から宗教書を読み漁った。何冊もの本の中で鈴木大拙氏の禅に関するものが一番心を打った。結局それが縁に成って梶浦逸外老師に巡り会い今日に至ったわけである。以上は私の若かりし頃の真に恥ずかしい話だが、俗世間の価値観とは違う何かを求めていたことだけは確かだ。これはその後何十年間の修行中、ずっと自分に繰り返し問い続けてきたことであり、それは今も変わらない。
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