非心非佛
 
 修行道場では昔から、腰上げをして歩く雲水の後ろ姿を見れば、修行年数が解ると言われている。腰上げとは着物の上に重ね着している法衣を腰ひも一本で同時にたくし上げることだが、外出時は常にこうして歩かなければならない。従って日常しばしば腰上げをする事になるのだが、これが意外と難しい。手巾の下に腰上げ紐をたくし上げ、外見は紐で上げているように見えないようにするのがコツだが、最初は誰でも旨くできない。高単さんの奇麗な形を見ながら何遍も稽古するのである。私が初めて瑞龍寺にやってきた時、法類の和尚さんと当時一番の古参雲水と三人で関係寺院へ挨拶廻りに出掛けたことがあった。その時の雲水の腰上げ姿を見てびっくり仰天した覚えがある。何故ならその姿たるやお粗末千万、まるでド新到であった。その男の修行振りがどんなものか一目瞭然だったからである。歩き方一つでも修行者のそれと在俗のとは自ずから違っており、どっしりと腰の据わった感じがなくてはいけない。その外、身振り手振りから喋り方果ては笑い方に至るまで修行が滲み出ていなければならないのだ。「えっ、笑い方まで修行者風というのがあるのですか。」とよく言われるが、大口開けてげらげら笑うなどは以ての外で、殆んど声を発せずに笑うのがよろしい。そんな事までと思うかも知れないが、常に沈着冷静、浮付いたところは決して見せてはならないのである。

 さて今から千三百年以上も前の中国の禅宗で馬祖道一禅師という方がおられる。容貌風采すこぶる奇異にして、歩くこと牛の如く視ること虎の如しと言われている。この馬祖禅師にある僧が、「仏とは何でありましょうか。」と尋ねると「非心非佛」。心にあらず仏にあらずと答えている。これは一体どういう意味であろうか。
  私事になるが、十八歳の時それまで当たり前と思っていたことに大いなる疑問を持った。それはなぜこんなにガツガツと毎日受験勉強を続けなければならないのかということであった。何故なら当然良い大学に入りたいからで、では何故良い大学に入りたいかと言えば、知名度の高い大学に入れば、やがて良い会社に就職できると考えるからだ。良い会社に入って沢山給料を貰えば、良い生活が出来、良い家庭を持つこど出来る。そうなれば立派な子供も育ち、安楽な一生を送れる。そこに人生の喜びを感じ兎も角今の努力が肝心と、勉強して目的を叶えようとする。しかしそうこうしているうちに人間はやがて年をとり老いさらばえやかがては死ぬ。これを逆に辿ってみた時、結局死ぬためにあくせくしていたということになりはしないだろうか。何と空しいことかと思った。死について幾ら考えてみても、どうにもならないことはよく分かっていたが、これを置いて先へ自分は進めないと感じた。つまりこれは現世の否定である。幾ら豊かになって地位や名誉を得たとしても、そんなものが何程のものか、これも現実の否定である。このように世の中のこと全てを否定し続けてゆくと終には、何もかも嫌になって投げ出したくなる。事実、私は一時全てが空しく価値の無いように思えて投げ出し馬鹿のようになった。未成年にも拘わらず毎日のように大酒を飲みふらふらになって江ノ島の海岸をさ迷い歩いた。しかしいくらこんなことをしていても新たな解決策が見出せる訳もなく、このまま行ったら廃人に成るかもしれないと思った。そういう苦境の中からこれはひょっとして宗教に縁れば道が見えるかも知れないと感じた。今ならどんな悪い宗教に引きずり込まれていたかも知れないと思うが、当時はそんな心配もなく、本屋に行っては片っ端から宗教書を読み漁った。何冊もの本の中で鈴木大拙氏の禅に関するものが一番心を打った。結局それが縁に成って梶浦逸外老師に巡り会い今日に至ったわけである。以上は私の若かりし頃の真に恥ずかしい話だが、俗世間の価値観とは違う何かを求めていたことだけは確かだ。これはその後何十年間の修行中、ずっと自分に繰り返し問い続けてきたことであり、それは今も変わらない。

 馬祖の言う、「心でもない、仏でもない」とは、つまりことごとく否定していることだが、我々も物事を片っ端から徹底的に否定して、もう一度見つめ直したら如何なものであろうか。ごく当たり前だと思っている物の存在自体も本当は無いのではないか。そう思っている自分の存在も実体は無いのではないか。「そんな馬鹿なことがあるか。事実こうして自分は間違いなく在る。目の前に物は存在しているではないか。」と。「いや在りませんよ!ないない無い。」しかしこのように言うと、「だから禅僧は訳の分からぬことを言って人を誤魔化す。」と仰る。
  申し上げたいことはひとつ、ただ漫然と既成概念に埋没するのではなく、一度否定してみよ、ということだ。すると物の本質が見えてくると思うのだが如何であろうか。

 

 

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