師家懇話会
 
 十年ほど前になるが、妙心寺派専門道場十九ケ僧堂の師家が一同に会し、ざっくばらんな懇話会を設けたら如何なものかと提案した。その頃の私は師家を仰せつかって十年が過ぎ、いろいろと思うこともあったので、先輩に直接話をお聞きしたいという考えもあった。それに北は松島の瑞巌寺から南は佐伯の養賢寺まで広範囲に散らばっているため、殆どお目に掛かる機会がないことから、年に一度くらいは顔会わせするのも良いだろうと考えたのである。宗門には宗議会という最高議決機関があって各地区から議員が選出され年二回議会が開催されている。あらゆる問題はそこで決定されるわけだが、我々の意見などは全く反映されていないのが現状である。言い方は悪いが鄭重に棚の上に上げられ、崇め奉られているだけで、つまり無視されているのに変わりない。

禅門で最も重要なことと言えば僧堂修行である。いくら仏教を教科書で学び、知識や理屈を覚えたとしても、そこから禅僧としての境界や働きが出てくることはない。だからこそ修行の現場で日々格闘している我々師家の意見が宗門全体に即反映されなければならないのだ。例えば僧堂修行は最低三年間させた後に、住職資格を与えてはどうかと働きかけているが全く無視されている。決定するのは宗議会の議員達で、議題にすら乗せて貰えないのが現状だ。近年僧侶の資質は悪化の一途をたどり、このまま放置すればやがて社会から見放されてしまうのではないかと憂慮している。宗門の良心たるわれわれ師家が積極的に発言してゆかなければならないと考えたのである。そこで先ず、日頃から親しくしている名古屋、徳源僧堂の嶺老師と相談し、更に先輩である神戸の祥福寺、河野老師のところへ出掛けた。老師は当時、花園大学の学長も兼務され多忙な日々であったが快く会って下さり、我々の趣旨にご賛同頂いた。かくして平成九年二月、第一回妙心寺派師家懇話会を開催する運びとなったのである。
  当初は画期的な会合ということで、宗門関係の新聞社が取材に来たりかなりの反応があった。爾来嶺老師と私が幹事役になり、今年で丁度十年になる。全員に案内しても僧堂の都合や行事と重なったりで平均十三人参集というのが近年の傾向である。人によってはわざわざ一杯やるために遠路出掛ける程のこともないと、二回目以降はとんとご無沙汰の人もある。しかし大体三分の二程度の方々にはお出かけ頂いているわけで私の発案も悪くはなかったと自負している。最近は宗派の方からも様々な形でアプローチがあり、本山で師家会議が催されたり、重要な審議会には師家仲間から委員が出たりして、それぞれの場で意見具申も出来るようになった。これなども一定の効果があったと感じている。
  昨年は個人的にも大変良い勉強をした。私は現在六十四歳で師家としてはまだ若者組なのだが、それでも大接心などは少々しんどいと思うようになってきた。サラリーマンと違って師家に定年はなく、むしろ年を経た方が骨董品と同じで世間的に珍重されるところがある。とはいうもののいわば現場監督であるから、早朝からの勤行や、坐禅、作務となれば、結構な肉体労働でもあり、体力の限界を感ずることが増えてきた。何となく七十くらいが潮時かな〜と考えていた折り、河野老師からこの度師家を退き網干の竜門寺の住職に成ると伺った。僧堂で七十五歳まで頑張ったことだけでもすごいと思っていたのに、その後直ぐ竜門寺へ転住されると聞いてさらに驚かされた。竜門寺は永らく無住が続いたために、二十数棟からなる諸堂の大半は雨漏りがして、悉くビニールシートがかけられ軒先も垂れ下がった酷い有様だという。このぼろ寺をこれから復興しようというのである。
伺えば、僧堂を後住に任せ境内近くには隠居所も建てられ、移り住むばかりだったという。それなのによくぞこんな地獄の真っ只中に飛び込んでゆかれるものだと舌を巻いた。この話を聞いた途端、七十そこそこで楽隠居しよう何ぞと考えていた私の甘えは一辺にすっ飛んだ。これも直接お目に掛かり話を聞き、じかに謦咳に触れたからこそである。

 ところで私には密かに尊敬している老師が居る。この方に比べたら私のやって来た修行など恥ずかしくて仕方がない。何時拝見してもぺらぺらの白衣によれよれの法衣姿だが、それが何とも様になっている。自然ではからいのない 「古尊宿」の風格が老師の内面から滲み出ているのだ。もし私がそんな格好をしてみても、ただのみすぼらしい哀れな和尚に成り下がってしまうに違いない。一人の禅僧が黙ってそこに佇んでいるだけで、周囲の者が無言の説法を聞くような雰囲気がある。私はまだ未熟者なのだと、その姿を拝見する度に思い知らされる。懇話会を立ち上げた功徳をこうして頂いていると感じるのである。

 

 

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