中欧旅行(その二)
 
 ご存じの通りヨーロッパでは殆どの乗り物には所謂改札というものがない。予め切符を買うか車内で車掌から買うか何れかで、これも所によってまちまちである。ブタペストの地下鉄はロンドンに次いで古い歴史を持ったものだそうだ。道路の直ぐ下が地下鉄の天井になるという構造だから、階段は十数段も降りればもうそこがプラットホームというわけである。すぐ傍らに小さな小屋が有りお婆さんが居たのでそこでキップを買った。電車もまるでオモチャのように小さく可愛らしい。ホテルへは七つ目の駅で降り、乗り換えて二つ目で降りればもうすぐ近くであった。乗換駅で降り、エスカレーターで更に下って行くと途中、腕章を付けた若者とおばさんが居た。我々一行を手招きするので何事かと近づくと、キップを見せろと言う。皆固く握りしめていたキップを差し出した。するとこれには日と時刻が刻印されていないから拾ったものだ、一人十ユーロの罰金を払えといきなり言いだしたのである。

これには驚いた。何時何処で刻印するのか解らなかったと答えると、駅には刻印機が設置されて居るので各自その機械にキップを突っ込んでやるらしい。小さなキップの裏に胡麻粒のような字でその旨書いてあるではないと言う。そんなもの見る者は殆ど居ないだろうし、ましてやハンガリー語の意味を理解できる者もおそらく居ない。押し問答の未、ごたごた言うなら警察に連れて行くと言い出したので、理不尽ながら仕方なく罰金を払う羽目になった。これは殆ど詐欺である。
  さて我々が宿泊するホテルは有名な鎖橋のたもとにあって、古めかしいが立派な作りであった。温泉やプールもあると聞いていたので楽しみにしていた。早速フロントで温泉への行き方を教えて貰うと、専用エレベーターがあって其処にいるおばさんに乗せて貰うらしいということが解った。ではそのエレベーターが何処に在るのかと、江坂さんと二人でうろうろ探し回ると隅っこに在った。その前にはぶすっとした白衣のおばさんが椅子に腰掛けていた。我々が立ち止まるとおばさんはエレベーターのボタンを押した。すると下から古色蒼然とした真っ黒な箱が持ち上がってきた。黒い蛇腹の鉄格子を開け次ぎにドアーを開けて呉れたので乗り込むと、中に又白衣のおばさんが居てカードを渡された。一階に止まり降りて前へ進むと駅の改札口のような所へ出た。其処に居た係のおじさんに貰ったカードを渡すと差し込み口にカードを入れ、仕切のバーが動き中へ入れるという仕掛けになっていた。ところが中に入ってみたものの大きな駅の待合室のようで一帯何処に温泉があるのか解らない。きょろきょろしながら右の入り口に入って行くと沢山の人が水着姿でうろちょろしている。我々は部屋から普段着姿で来てしまったので何処かで水着に着替えなければならない。傍らのカウンターに白衣の太っちょのおばさんが居たので身振り手振りで着替えたいと言うと、アルミの一円玉を金槌で叩き潰したようなものがぶら下がっている紐を呉れた。そして白いカーテンで塞がれた小さな個室が沢山並んでいるその中の一つを指さしたので其処で水着に着替えた。貴重品を入れるロッカーの鍵はどうなってるんだろうとまごまごしていると、件のおばさんがマスタキーで鍵をしてくれた。こうしてようやく風呂に辿り着くことが出来たのである。しかしこの間何と無駄な人が多いことか。日本なら一人も要らない。ハンガリーは未だに共産国で徐々に変わりつつあるとはいえ意識も組織も旧態然としたままである。温泉も日本のように温泉独特の臭いがするわけでもなく何だか期待はずれだった。午後六時半には早や終わりだというのも、其処で働いている人の退社時間に合わせたものらしい。そそくさと風呂からあがり、ロッカーに戻ったが濡れた体を拭くものが無い。そこで例のおばさんに又身振りで聞くとそんなことあたいの知ったことかと言わんばかりで取り合っても呉れない。気持ち悪かったがびしょぬれのまま服を着て部屋に戻り、もう一度シャワーを浴びて着替えた。

以上が温泉入浴の顛末で、何とこの不親切さ、其処で働いている人達の愛想のなさ、凡そ労働意欲の欠けらも感じられない。面倒臭いが、入りたいなら勝手にどうぞ≠ニ言わんばかりの態度で、何事もサービス第一の資本主義経済下に慣れ親しんだ我々にとってこの雰囲気はとても堪らない。江坂さんは永らく商社マンとして海外貿易の第一線で活躍されたのだが、「共産圏で仕事をすると、用事が済んだら一刻も早くその国を出たいと何時も思いました。」と仰っていた。何が起こるか分からない不気味さが常に付き纏っているのだそうだ。眼前に屹立する息を呑むような素晴らしい建築物とこの国の人達の現状を見るに付け、このギャップはいったい何なんだろうと思った。

 

 

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