倩女離魂
 
 この間、嘗て私が京都で小僧をしていた頃に一度お目に掛かったことのある人から長い手紙を頂いた。それは昭和三十八年夏のことである。当時寺では学生相手の下宿屋のようなことをしており、ひっきりなしに学生が出入りしていた。気楽な雰囲気が好評だったようで、休暇とも成れば必ずと言っていいほど何処からか学生達がやって来ては民宿代わりに泊まっていた。特に若い女子学生でも来ようものなら男子学生達は大いに盛り上がって、大抵は一緒に市内のお寺巡りなどに出掛けて行った。私は小僧だったので何時もそういう話の外なのだが、その時に限ってどういう訳か急に和尚さんが、「今日は清田君も一緒に連れて行って貰え。」と言った。そこで三人の女子学生と下宿の大学生と私の五人で出掛けた。行き先は大原の三千院、寂光院、それから嵐山へ廻り桂川でボートに乗ると、後はただてくてくと歩いて寺に帰った。たった一日だけの見物だったが楽しい想い出になった。翌日は掛塔のため寺にいた学生達に見送られて出立という時、急に一人の女子学生が、「私京都駅まで見送ってくる。」と言った。二人でバスに乗り殆ど口をきくこともなく駅に着いた。「元気を出してしっかり修行しなさいね!」とまるで姉が弟を励ますように手を振り見送ってくれた。この人が手紙をくれた彼女だったのだ。あれから四十二年の歳月が流れたのである。

 彼女はその後銀行マンと結婚して二人の子供にも恵まれ、今は幸せな生活をしている様子である。昨年妙心寺の禅を学ぶ夏期講習に参加し、何十年振りかでお寺を訪ねたり、又講習会中に瑞龍寺の坐禅会員と話す機会にも恵まれ、件の手紙となったのである。それから半年ほど経った頃、「近々比叡山の写経会に参加するので、ちょっとお寄りしても良ろしいでしょうか。」と手紙を頂いた。久しぶりにお目に掛かると学生時代より少しふっくらとされていたが、面影は残っており、それは懐かしい再会であった。
  その折りこんな話をされた。彼女の長男が中学二年生になった頃、急にだぼだぼのズボンに紫色のベルトという格好をした。高校に行くようになってからは更にエスカレートして、夜な夜な暴走族仲間と出て行くようになり、ついには学校から暗に退学して欲しいと言わんばかりの事態になってしまった。様々説得を試みたものの一向に効き目はなく、いっそこの子を道づれに死んでやろうとさえ思ったそうだ。そんな地獄のような日々が繰り返され、又いつものように暴走族仲間と車で出掛けようとした時、彼女は前に立ちはだかって、「どうしても行きたいならお母さんをひき殺してから行きなさい。」と叫んだそうだ。後から思うとこの言葉が引き金となり、彼を次第に立ち直らせたという。高校卒業後は自分で内装工事会社を興し、誠実な仕事ぶりが好評で繁盛しているというのである。
  私はこの話を聞きながら、無門関の倩女離魂を思った。揚子江の畔、衡州という所に張鎰という金持ちがいて、倩女という才色兼備な娘をもっていた。張鎰には王宙という甥が居たから、冗談半分に、「お前達は将来夫婦になると良いなあ。」などと言っていた。年頃になった倩女は引く手あまたで、或る役人から熱心に申し込まれたため父親は承諾してしまった。いよいよ嫁にやるという時、王宙はとても耐えられず、遠い他国へ行って暮らそうと決心し、揚子江を下って蜀の方へでも行こうと船を漕ぎ出した。すると堤防をばたばたと走ってくる者がある。見ると倩女であった。二人は手に手を取り合って蜀の奥地に入って十数年の歳月が流れた。子供にも恵まれ幸せな家庭を築くことが出来たが、思い出されるのは故郷に残してきた両親である。さぞ自分達のことを心配しているだろう、一度国へ帰って両親に謝りたい。そこで二人は船に乗り衡州へ帰った。いきなり行って年老いた両親を驚かせてもいけないと、先ずは王宙一人が無断で倩女を連れ出したことを詫び、懇ろに謝罪した。「お陰で子供も二人授かり今は幸せに暮らしております。」と言うと、「何を言っているんだ。倩女はお前が国を出てから、ずっと病気で寝たきりだ。」驚いた王宙は船着き場に戻り倩女と子供を連れて来た。すると寝ていた倩女もむっくり起き上がって表へ出ると、いま来た倩女と顔を合わせにっこり微笑んでピタツと一つに成ったという。

 私は彼女の話を聞きながら、ずっと寝た切りになった倩女が息子、蜀の国で幸せな家庭を築いた倩女が母親だと思った。お互いはなれ離れになって苦しみ抜き、ようやく一つに成った瞬間、息子は真人間に立ち返ることが出来たのである。禅を一口で言うなら”なりきる”ということにつきる。しかしこれは生死の境を潜り抜けた者だけが得られるのだ。もし一時でも油断しようものなら、途端に地獄行きは必定なのである。

 

 

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