次ぎに 「わび」 だが、これは平凡な中にある美、控えめで簡素な美しさということである。日常生活を取り巻く全てのものに美を発見してゆく。それは花瓶や茶碗果ては杓子に至まで、何の変哲もないような家庭用具に美を感ずる。白洲正子氏の 「かくれ里」 を読んでいたら、その中に木製の玉杓子を部屋の装飾品として置いてある写真が載っていた。現在では玉杓子は全て金物になってしまったが、昔は何処の家庭でも当たり前に木製のものを使っていた。その形や色合いなど、確かに安価な金物製にはない美しさを感ずる。
次ぎに 「しぶい」 であるが、これは柿の渋からきた言葉であろう。簡素で自然で趣味の良い美しさである。人物で言うなら志村喬や笠智衆や三船敏郎などの演ずる役柄であろうか。分別があり、真面目でどこか控えめというところが実に良い。外国では人を押しのけてでも自分を主張し、前に出ないと駄目だと聞いたこともあるが、日本人はそういうところには品性を感じない。「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉があるように、何でもべらべら喋ればいいというものではない。
次ぎに 「幽玄」 である。表に現れないところに耳を傾け、隠された意味を探り、言い切っていない美しさである。以前、加藤東一氏が日展に 「留白」 という題の絵を出品されたことがある。留白とは塗り残した白の部分の美しさである。水墨画などで余白の美というが、余白というと余りものの白という感じになるが、決して余った白ではなく重要な意味が込められているのである。またお能なども、僅かな動きの中に人間の純粋さや凄まじさ、孤独や魔性などを表現してゆく点において同じなのではなかろうか。俳句にしても五七五の極めて短い言葉の中に沈潜した心境を表してゆく。例えば芭蕉にこういう句がある。「命二つの中に生きたる桜かな」。貞享二年、伊賀の郷里に帰っていた芭蕉は京へ上る途中、水口で旧友服部土芳と二十年振りの再会を果たした。心をわけ合った二人の間にばっと開いた桜が目に見えるような句である。たった十七文字の中にこれ程多くの感情を盛り込むことが出来るのである。
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