大和ごころ
 
 或る外国の新聞記者が日本人の美の基準について大変興味深い文章を書いている。日本人が美しいと感ずる基準には四つの観念があり、それはさび、わび、しぶい、幽玄だというのである。まず一つ目の 「さび」 だが、これはものが錆びるところから来ている。つまり年月を重ねて黒ずんだり擦り切れたり苔むしたりする古いものの美しさ、時代の影に特別の魅力を感ずる。以前、或る寺の本堂が新築されその落慶式と、合わせて先住職の法要が行われ招かれたことがある。まず落慶式だが、九十歳に成られる先輩の老師が導師をされた。既に自力で歩かれるのは困難な状態で、車椅子であったのでお供え物を空じたり拝をするのはその寺の住職が代行した。次ぎに祝意を籠めた偈頌 (げじゅ) が唱えられたが、何せご高齢なこともあり、声も小く殆ど何を言っているのか解らなかった。しかし本堂を埋め尽くす参詣の老若男女は皆深い感銘を受けている様子が伝わり、誠に有り難い法要であった。修行者として年月を重ねた足跡と、老体から発せられるさびた味わいの中に、一層深い信仰の証を垣間見たのではないだろうか。

   次ぎに 「わび」 だが、これは平凡な中にある美、控えめで簡素な美しさということである。日常生活を取り巻く全てのものに美を発見してゆく。それは花瓶や茶碗果ては杓子に至まで、何の変哲もないような家庭用具に美を感ずる。白洲正子氏の 「かくれ里」 を読んでいたら、その中に木製の玉杓子を部屋の装飾品として置いてある写真が載っていた。現在では玉杓子は全て金物になってしまったが、昔は何処の家庭でも当たり前に木製のものを使っていた。その形や色合いなど、確かに安価な金物製にはない美しさを感ずる。
  次ぎに 「しぶい」 であるが、これは柿の渋からきた言葉であろう。簡素で自然で趣味の良い美しさである。人物で言うなら志村喬や笠智衆や三船敏郎などの演ずる役柄であろうか。分別があり、真面目でどこか控えめというところが実に良い。外国では人を押しのけてでも自分を主張し、前に出ないと駄目だと聞いたこともあるが、日本人はそういうところには品性を感じない。「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉があるように、何でもべらべら喋ればいいというものではない。
  次ぎに 「幽玄」 である。表に現れないところに耳を傾け、隠された意味を探り、言い切っていない美しさである。以前、加藤東一氏が日展に 「留白」 という題の絵を出品されたことがある。留白とは塗り残した白の部分の美しさである。水墨画などで余白の美というが、余白というと余りものの白という感じになるが、決して余った白ではなく重要な意味が込められているのである。またお能なども、僅かな動きの中に人間の純粋さや凄まじさ、孤独や魔性などを表現してゆく点において同じなのではなかろうか。俳句にしても五七五の極めて短い言葉の中に沈潜した心境を表してゆく。例えば芭蕉にこういう句がある。「命二つの中に生きたる桜かな」。貞享二年、伊賀の郷里に帰っていた芭蕉は京へ上る途中、水口で旧友服部土芳と二十年振りの再会を果たした。心をわけ合った二人の間にばっと開いた桜が目に見えるような句である。たった十七文字の中にこれ程多くの感情を盛り込むことが出来るのである。

   さて現代の状況はどうであろうか。知人でお茶の家元が居るが、聞けば近年茶道人口は減少の一途を辿っているそうだ。確かに現代っ子にとっては慣れない畳に何時間も座らされ、足が痺れて堪らないから嫌だと言うこともあるかもしれない。また師弟関係が煩わしいと言うのもあるだろう。お茶に限らずお針仕事でもお華でも、そんなことは何も知らなくとも実生活では別に不自由は無いから習う必要はないとも言える。しかしこうした現象の根底では日本人が長い間脈々と受け継いできた日本精神がガラガラと音を立てて崩れ去っている気がする。昔、知人の和尚さんが、「占領軍の政策が五十年経って漸く今日本に定着し、日本という国は有っても、もう日本人は居なくなったのだ。」 と言っていたのを想い出す。日本人は天地自然の一木一草を神とし佛と崇め、そこから人間の生きる価値を学び、身を律してきた。礼節を尊び先祖を敬い、親に孝養をつくし正義感を持ち高い品格と精神の深みを培ってきたのである。これが日本人の伝統的な美しい生き方なのだが今、それは何処へ行ってしまったのだろうか。図らずも外国人によって日本精神の根幹を指摘されたのだが、肝心の日本の若者にその自覚がなく、それを知る機会さえほとんどないというのは大いに憂うべきことである。近年ことに無批判に欧米化の中に埋没してゆく風潮は嘆かわしい限りである。日本精神の根底に流れている佛心を改めて思い起こして欲しいと願っている。

 

 

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