さてこのジョン・カバットジン氏の考え方だが、病を治す医学の根本は何んなのかと突き詰めてゆくと、結局人間とは何かを知らなければならないというのである。そこでマサチューセス大学では百人も座れるメディテーションルームを作り、常時医学部の教授や学生、患者自身も利用し瞑想するという。例えば末期癌患者をケアーして行く方法として、終末を少しでも安らかに迎えて欲しいという願いからホスピスがある。しかしこれもやや消極的なもので、もっと積極的な治療法として瞑想があるというのだ。瞑想し無心になって、真実の自己何物ぞと言う所まで深く掘り下げてゆく。いわば人間存在の根本まで突き詰めて行くと、自己本来の治癒力が高まり、余命半年と宣告された人もその後二年三年と生き延びたり、果ては癌が消えて無くなってしまったなどと言う例もあったというのである。こういう話しは好い加減な事を書くと誤解を招くことにも成りかねないので、その時の彼女の話をそのまま此処に書いた。だからそれ以上のことは解らないが全くの眉唾物とも思えない。最新の医学を以ってしても癌は容易ならざる病であり、治療薬とても両刃の剣で、常に危険と背中合わせである。こういう状況の中で単に薬ばかりに頼らず、自分で生き抜くという強い意志が治癒力を高めて行くというのは考えられる話である。
さてそこで禅メディテーションの具体的方法だが、これが又ユニークである。例えばイートメディテーションというのがある。まずおにぎりを一ケ用意し、一口食べる。外事は一切考えずただひたすらもぐもぐやりながら意識を口中に集中して行く。するとご飯粒が段々柔らかになりお米の微妙な味がしてくる。更に二口食べ、同様に口中に意識を集中する。これを繰り返しながら、一ケ食べ終わる頃には今まで何となく食べていたおにぎりにも全く別の世界が広がってくる。只これだけの事なのだが、ちゃらんぽらんに食べるのでなく食べることだけに集中して行くこと、これがメディテーションのみそである。
また禅ウォーキングというのもある。これは要するに歩くことなのだが、辺りの景色を眺めながらぶらぶら歩く散歩とは違い、ひたすら歩くことに意識を集中させるのである。ではどのように歩けば良いのかということだが、目は約二メートル前を見て背筋をぴ〜んと伸ばし足に意識を集中させひたすら歩く。何れにしてもする事と一つに成るのが重要である。白隠禅師の言葉に、「動中の工夫、静中の工夫に勝ること百千万倍」というのがある。人間何もしないでじっとしていればさぞ心は穏やかになって安楽になると思うかも知れないが、実際は逆で却って不必要なことが次々に沸き起こって心は乱れるのである。「坐禅して去年の借りを想い出し」 で、想い出さなくて良いようなことまで想い出してしまう。修行中師匠が何時も言っておられたが、「独楽は猛烈な勢いで回っている時は止まっているように見えるものだ。しかし段々力が弱まってくると心棒がフラフラしてきて、却って消耗するのだ。何事も成り切ってやれ!」 と叱咤激励された。
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