有給休暇
 
  サラリーマンには有給休暇というものがあって、これを使えば年間何日間かは休むことが出来るらしいが、僧堂は修行の場だからそういう休暇はない。しかし冬制夏制の各安居三ケ月間が無事円成し制間に入り、その後一ケ月半、師匠からの休暇願書が提出されれば、一週間から十日間ぐらいは暇が貰える。閉ざされた僧堂内で修行の明け暮れが続き、大接心も終わってちょっと気持ちを変えたくも成るわけで、皆暫暇を貰うことになる。現在では雲水の大半は師匠と実父が一緒だから完全な骨休めで、さぞ羽を伸ばしていることだろう。しかし私が小僧だった頃はそうはいかなかった。帰ったその日から庭掃除、草引き、風呂炊き、炊事といった具合で、却って僧堂の方が楽だと思ったりした。それでも誰からも監視されず世間の風に当たりのびのびした気分は良いものだった。
  さて現在の私は僧堂が自分の住まいだから別に帰って行く場所はない。制間だろうが何だろうが此処にじっとしているより他なく、それも無念な気がしてくる。そこで気分転換を兼ねて仲間と旅行に出かけたり、また郷里へ墓参りに行ったりする。しかし今年の冬は生憎誰からも誘いが掛からなかった。そこで何処か暖かい地方へ出掛け、溜まった本を一気に読破しようという計画を立てた。送られてきたパンフレットを見て石垣島七日間滞在リゾートホテルへ申し込んだ。

  さて現地に到着してみると、石垣島はまるで天国のようだった。日中二十六度で、テラスからは真っ白な砂浜と南国特有の独特な青い海が一望に見渡せ、そよそよと吹き抜ける潮風は当に私が望んでいた通りだった。さあ、今日から七日間じっくり腰を据え、堆く積み上げられた本を読みまくるぞと決め、即座にラフな格好に着替え読書を始めた。しかし一日経ち二日経つうちに、次第に最初感じた爽やかな気分は何処かへすっ飛んでしまい、段々と憂欝な気持ちになってしまった。これは一体どうしたことか、自分で思わぬ心の変化に戸惑った。
  その原因は何かと考えるうちに様々なことが解ってきた。まず幾ら本を読みまくると言っても朝から晩まで一日十数時間、何日も続けていたらいい加減嫌になってくる。しかもホテルは図書室ではないから読書用の椅子や机、照明などが設備されているわけではない。誠に使い勝手が悪く、同じ姿勢でいるうち、肩は凝るし首筋は張ってくる。おまけにホテル特有の薄暗い照明で読み続けた為、目はしょぼしょぼになり、とうとう文字が歪んで見えるようになってきた。それでも此処まで来て怯んでる場合では無いと尚も頑張ったが、遂に根が切れてダウンしてしまった。のんびり好きなだけ本を読み、リラックスして大いに英気を養うはずが、結果はこの有り様で、這々の体で一週間ぶりに我が家に帰ったのである。
  暫く落ち着いたころ、今回の旅行について総括してみた。そこで気が付いたことは、使い慣れた単布団にどっかと座り、机に向かう心地よさであった。少し手を伸ばせば様々な種類の本が私の好きなように並んでいる。気分を変えたければ、新聞を読んだり、雑誌に目を通したり、音楽に耳を傾けたり、テレビを見ることも出来る。此処にはバラエティーに富んだ私流の心地良さがちゃんとセットされていたのである。今までは当たり前すぎてそこに気付かず、何処かにもっと良い所があるのではないかと考えていたのである。
  確かに美しい景色に囲まれたリゾート地の立派なホテルに泊まるのは良いかも知れない。しかしそんなものは少しの間だけで、暫く眺めていれば飽きてしまう。つまり人は外的な物では満足は得られないということだ。所詮は一時の変化を珍しがっただけで、本当の快適さではなかったと言うことである。
  私は人に足(たる)を知らなければ駄目だと言ってきた。人間の欲望には際限がないからだ。しかしそう言ってきた自分自身が実は何も解ってはいなかったのである。出家して既に四十八年にも成るが、それでこの有り様、誠に恥じ入るばかりである。結局自分の顔は自分では見えないのだから、いろいろな機会を通じて、その見えない自分の顔を映し出して行かなければならないと解った。

   ある時孔子は弟子達に向かって、「説いても解るものは一人も居ないから、もう喋るのは止めた」 と言った。すると高弟の子貢が、「道を説かずに黙ってしまわれては私どもはこれからどうしたら宜しいのですか。」 と尋ねた。すると孔子は 「天は何にも言わないが春夏秋冬、真理は丸出しになっているではないか。天は一つも隠してはいない。」 と答えたという。我々は常に相対する全てのものに心を映し、真実の姿を見いだして行かなれけばならない。その意味で今回の旅行は当に私の心を映し出す鏡だったのかも知れない。

 

 

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