今回そういう開山さんの遠忌に当たり、もう一度六百五十年前の精神に戻って修行の大切さを再確認し、お互いの資質を高めようというわけである。しかしただ講師を呼んで話を聞いたらそれで良しというのでは何処か間違ってはいまいか。我々師家は本山に対し事あるごとに僧堂歴三ヶ年以上で住職資格を与えてはどうかと要望するのだが、未だに実現されない。確かに大きな組織になればなるほど寺院の事情も様々で、修行より日々の生活を支えて行くことの方が先決だと言う寺院があるのも事実で、これを全く無視するつもりはない。しかし一方では相当檀家も有って住職も若く、まだ幾らでも修行できる条件が揃っているにも拘わらず、必要最低限の僧堂歴でさっさと帰って行く現状は嘆かわしい限りである。別に規則違反している訳ではないのだから何んの文句が有るかと言われればそれまでだが、つまりこれは僧侶としての良心の問題なのである。新聞の三面記事を読んでも今まで考えられないような凶悪な犯罪が次々に起こっている。そういう質の悪い社会だからこそ一層宗教家としての在り方が問われるのである。現在我々に最も求められていることは無相大師の修行を継承して行くことで、それはつまり皆が僧堂へ帰って修行し直すことである。そう言うと、忙しくてとても僧堂へ修行などに行っている暇はないと直ぐ言いだす。解らなくもないがそこを何とか繰り合わせ、例え勤めている者でも有給休暇を使ったりして年に一度くらいは大接心に参加する。そして嘗て自分の修行した僧堂で新到さんと共に坐って初心に返って貰いたいものだ。学問知識だけなら今や在家の人の方が僧侶より余程うわまわっている。しかしどんな理屈より、禅の実地の修行以上に適うものは無い。禅僧の一番の強みはこれ以外になく、無相大師への報恩の行は唯一これだけと信ずるものである。
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