扉を開く
 
 先日奈良薬師寺執事長の村上太胤師から電話があった。二月十五日の涅槃会に俳優の滝田栄氏を連れて一緒にお詣りさせて頂きたいという話しであった。快くお引き受けしたところ、当日十時半頃二人でやって来られた。滝田氏はずっと以前、NHK朝の連続ドラマ「なっちゃんの写真館」で拝見して以来、時折テレビのコマーシャルで見かけるぐらいだった
が、良く聞いてみると「レ・ミゼラブル」の舞台を十四年間の永きに渡って演ぜられたそうだ。その後いろいろ思うことが
あって、インドへ行きヒンズー行者の仲間に入り二年間修行してこられたというので、これには驚かされた。一昨年、坐
禅会員と共に私もインド仏跡巡拝に出掛けたが、たった十日間ほどの贅沢な旅にも拘らず、殆どの者が食中りでばたばたと倒れた。水や油が日本人の体質に合わないことが原因らしいのだが、そんな気候も風土も水も悉く異質で過酷な状況下、良くぞ二年間も行者修行をされたものだ。
  ところで何故今回涅槃会にお詣りすることになったのかというと、インドで釈迦という映画が制作される事になり、その主役に抜擢されたのだそうだ。過日オーディションが現地であって、世界中から我こそはと集まった中で大役を射止めたということだ。今までも彼は役作りに人一倍神経を使ってきたようで、嘗て家康役の時は家康幼少の頃静岡の臨済寺で小僧生活をしたと知り、わざわざ寺にしばらく逗留し家康同様の禅修行をして、役作りに生かしたという。今回も釈迦を演ずるに当たってあらゆる機会を捉え仏教について少しでも吸収しようという事なのであろう。何事によらず好い加減にやり過ごすことの出来ない性格とお見受けした。

レ・ミゼラブルでも十四年間その役にのめり込み、公演が終わると連日精も根も尽き果てていたそうだ。しかし舞台の幕が下ろされると同時に感激した観客が総立ちになって三十分間も拍手が鳴り止まず、苦労が多ければ多いほど喜びも多く、身の毛もよだつ程だったと目を輝かせて言っていた。後日、彼がそれ程のめり込むミュージカルなら、是非私も見てみたいと思い、早速名古屋中日劇場へ出掛けた。そのエネルギッシュで躍動感溢れる役者達、場面展開の妙、主役のバリトンの声、少女コゼットの可愛らしさ等々、約三時間半の公演は素晴らしいの一語に尽きる。今回は残念ながら滝田氏ご本人のジャン・バルジャンを見ることは出来なかったが、さぞ素晴らしい出来だったに違いない。それにしても俳優という仕事も楽ではないというのが素直な感想である。
  ところでその折り太胤師に上手な話し方についてご教授をお願いした。と言うのも現在薬師寺上位三役は全て岐阜県出身の方で、それぞれ定期的に来岐されて催される法話会は大好評を博しているからだ。一方地元の私にはその手の依頼は殆ど無く、「断り無しに門前辺を荒らし回らないで下さいね。」と冗談を言ったほどだ。つまり私の話がへたっぴーで面白くも何ともないからであろうが、そこでコツは何かお尋ねしたわけである。彼が言うには、「どうも禅のお坊さん方は難しい話しばかりされる。幾ら為になると言っても、聞いている相手の心の扉が開かなければ伝わらないから駄目です。まずはごく一般庶民のレベルに自分も下がって、くだらんような話しでもざっくばらんに話し、大いに笑わせ扉が開いたなと思ったところで、これだ!という最も伝えたい事柄をちょっと言えばいいのです。亡くなられた高田好胤師は四十数年間殆ど毎日のように全国を巡って法話されたが、二月は涅槃会のこと、三月は花会式のこと、四月は花祭り…という具合で毎年話題は一緒だったんですよ。それでも聴衆を引き付けて止まなかったのは、「話力です。」と仰った。話の内容もさることながら話しているお坊さんの存在そのものが魅力なのであろう。つまり中味のない奴が幾ら良さそうな話をしても人は簡単に見抜いてしまう。すると私は空っぽの箱男かという事になってしまうわけだが、それでは全く立つ瀬がないと思った次第である。

   初めに俳優滝田栄氏の役者としての真摯な生き方をご紹介し、次に高田好胤師や村上太胤師の衆生済度の姿を垣間見た。いずれも 「なり切って」 いる処が尊いと感じた。真っ直ぐに相手と向き合い、徹底親切で温情溢れ、自分の身は捨てても、本分を全うしようという姿勢は天下に恐れるもの無しという生き方が有ればこそであろう。つまり重要なのは話術などという小手先の問題ではなく、全人生をかけて悔いのない真実一路なのである。話し方のコツなど最初から無かったのだ。聴衆も常にそこを見抜いているのである。「もっと自分を磨け!」 という天からの声が聞こえるような気がした。

 

 

ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.