根性
 
 一昨年の十一月、うちの本堂の襖絵を描いて下さった土屋禮一先生が日展で文部科学大臣賞を受賞された。そこで有志の者数人が発起人となり市内のホテルで祝賀会を催すことになった。会には当初我々が予測するより遥かに多くの方々が駆けつけて下さり、大盛会のうちに無事円成した。翌日、先生御夫妻が弊寺までわざわざ御礼のご挨拶に来られた。先生とご一緒させて頂くと、いつも興味のある話しを次々にして下さる。それも楽しいみなのだが、丁度その折りにもこんな話しをして下さった。
  米国の或る企業では優秀な営業マンに褒美としてマルハナバチをデザインしたバッチを贈る事にしているのだそうだ。つまりマルハナバチバッチである。社員はこのバッチを胸に着けて誇らしげにしているという。何故この蜂をバッチにしたかというと、この蜂は大きな体に似つかわしくない異常に小さな羽根しか持っておらず、どう考えても飛べないはずなのだが、不思議なことに飛ぶそうだ。常識的には飛べないはずが飛ぶという所から、「根性」の象徴的存在としてこの蜂をバッチにして贈るというわけである。では何故このマルハナバチが飛べるのかということだが、どうもこの蜂は自分が飛べないことを知らないからではないかと推測されているという。

  次にノミのサーカスの話し。ノミを丸い容器に入れると盛んに跳び跳ねる。しかし暫くすると固まってじっとする。そこで再び容器を揺すってやるとまた盛んに跳び跳ねる。これを何度か繰り返し、しまいに丸い容器を取り外すと遂には飛ばなくなる。つまり諦めたのである。そこでやおらサーカスの調教師はノミに芸を仕込んで行くという次第である。
  作家の尾崎士郎氏のエッセーにこんな一文がある。ある時自宅のトイレの小窓の隅に一匹の蜘妹がじっと蹲っているのを発見した。しめ切ったこんな所でこの蜘味は一体どうするか観察してやろうと考えた。早速家族の者にも以後絶対に小窓は開けないように言い渡した。それからトイレに入るたびに小窓の隅に蹲っている蜘蛛を観察し続け何ヶ月経ったか知れない。そこでもこの蜘蝶はじっと動かない。遂にしびれを切らし、もう死んだろうと思ってちょっと窓を開けた瞬間、外へ飛び出したそうだ。蜘味は生きるために堪え忍んで小窓の開く一瞬をずっと待ち続けていたのである。どうです、この堪え忍ぶ根性。
  動物の生態を観察するこんなテレビ番組もあった。ある種類の雁は高さ百メートル以上もあるような断崖絶壁に巣を作る。卵が孵ると親鳥は盛んに海で魚を捉えては雛鳥に餌を与える。ある程度成長すると途端に雛鳥は巣から消える。初めは親鳥が背中に雛を乗せて海に運ぶのではないかと考えられていた。しかし観察の結果そうではなかったことが解った。なんとまだ産毛も充分生え揃わぬいたいけな雛鳥が、この断崖絶壁から次々に身を躍らせ飛び降りるのである。あるものは途中の岩にぶつかって、またあるものは百メートル下の固い岩盤に叩き付けられて死ぬ。運よく下草の上にふわりと落ちたものだけが死を免れるのである。しかしこれで生き延びられたわけではない。落ちてくる雛を餌にしている何十匹もの狐が虎視耽々と待ち構えている。雛鳥は本能的に素早く草むらに身を隠すのだが、その間にも何匹もの雛をくわえた狐が右往左往している。こうして命からがら海に辿り着いた僅かな雛鳥だけが生き長らえるのだ。自然とは何と過酷なものかと慄然たる思いに駆られた。
  その時、「百尺竿頭一歩を進め絶後に再び蘇る」という禅語が頭をよぎった。世間でも、「出るのも地獄残るも地獄」とリストラの嵐が吹きまくった頃は盛んに言われた。生存競争の苛酷さは何も動物世界ばかりではないのかも知れない。しかし人間の場合は何処か社会的に保護される余地が残されているように思う。それに比べて動物の場合は死んだら外の動物の餌になるだけである。狐に、「お前そんな醜いことをするなよ、こんな可愛い雛を食うとは何と無慈悲な!」と言っても始まらない。

   百尺竿頭……の禅語は我々の修行で、二進も三進も行かなくなった時、全てを捨てて死ぬ覚悟で更に前進せよ。そうすれば先にあるのは死だが、不思議なことに復活するのである。そんなバカなと思われるかも知れないが、これは心の世界の問題で、そこでは大いにあり得るのだ。我々は普段如何に多くのしがらみに雁字搦めになっていることか。本来心はもっと軽やかで清々しいものだが、日々の生活の中で汚れ重く沈んでゆく。これを椅麗さっぱり掃除してもとの姿に戻すには、徹底的な自己否定が必要だ。するとその後再び蘇って自己革新を成し遂げるのである。生死の瀬戸際で格闘している自然界を見習い、人間もまた「前へ!」の気概で生きなれけばならない。

 

 

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