心理療法
 
 悩みや苦しみを抱えた人に対してどのように支援していくか、これはなかなか難しい問題である。専門的な訓練を受けた者が相談者の人格に配慮しつつ問題を解決して行くわけだが、カウンセラー自身も同時進行的に相談者の悩みを共有することになるので、一層複雑で困難なことになる。良くある例だが相談者が溜まっていた悩みや苦しみを吐き出すと、それだけで一時的に気持ちが楽になることがある。しかしこれはもっと根っこの部分にある問題と向き合っていないから、一時凌ぎの痛み止め注射のようなもので、時間が経てば又苦しみがぶり返し倍加することになる。つまりカウンセリングとは相談者に悩みや苦しみと真正面から向き合って、大いにちゃんと悩んで貰うことなのである。従って苦しさはそれまでより二倍にも三倍にもなってくることがある。そこでは一体何をするのかであるが、直接的援助はしない。つまりカウンセラーによって問題を解決するわけではないからである。例えばお金のない人にお金を上げるような事はしない。何故ならお金が無くなればまた元の木阿弥で、お金のない状態は依然として解決されないばかりか、更にお金を貸してくれと無心してくる事になる。つまり本人がやらなくて済むような状態にするのは間違いだからだ。頑張ってバイトをして自ら生計を立てて行けるようになって貰わなければ成らないわけで、間違った支援は折角悩み苦しんでいるのにそれを乗り越えて行く足を引っ張ることになりかねないのである。

  さて心理療法の方法には幾つかモデルがある。その一つが医学モデルで、例えば体調思わしくないような場合、まず医者に行き種々検査して貰う。聴診器を当てたり熱を測ったり尿の検査をしたりして病因を発見する。その後、注射や薬などを用いて病根を弱体化し治癒する。しかしこれとても注射や薬だけが病気を治すわけではなく自己治癒力が大いに関与している。医者や薬はあくまでも援助しているに過ぎない。心の問題も然りで、まず相談者の話を良く聞き原因が何処にあるのかを探る。そこで躾が悪いとか家族関係が旨くいっていないと解ればそれを改めて貰う。いわばこれが薬や注射に当たるわけで、適切な助言や指導によって原因を除去し問題を解決してゆくのである。ところがこれは方法論としては大変便利だが、実際殆どの場合こうは成らない。人間はそう簡単には変えられないからである。言われてすぐに改められるような人ならわざわざ相談になど来ない。改められないからそうなってしまったのである。人間は誰でも悩みや苦しみを抱えながら生きているものなのである。この世から苦しみが無くなることなどない。そこで真の解決法はその悩みを抱え込みながら自己成長し、苦しみと折り合いを付けつつ、自分らしい生き方を取り戻してゆくことなのである。従って自らの問題と向き合い解決しようという自覚の持てない人は決して悩みを解決することは出来ない。
  中国のある地方が大干ばつに見舞われた。祈祷してみたものの一向に降る気配はない。とうとう困り果て最後に雨降らし男≠ノ来て貰った。男は「小屋を建ててくれ。」 と言うので作ったら、四日後に雨が降った。そこで村人達は感謝し、御礼を言ったところ、「自分のせいではない。私は何もしていない。」と言った。「自分がこの土地へやって来た時此処は天から与えられた秩序で生きていないと感じた。自然な状態でないからいけないのだ。自分は自然な状態で生きているので小屋の中でじっとしているうちに、四日経ったら此処も自然な状態に戻った。だから雨が降ったのだ。」と言った。この話はカウンセラーの理想的な姿としてよく引用される。世間にもあの人の前に立つと、特別な指導を受けたりしないのに、知らぬ間に心が楽になって自分らしく自然体になれることがある。これはカウンセラーから何らかの影響を受けて自己治癒力の成熟が促進されたからである。

 それは素晴らしい仏像の前に仔むのに似ている。以前真冬に女人高野と言われる室生寺へ詣ったことがある。境内はし!んと静まりかえって人っ子一人居なかった。そこで本堂の十一面観音立像を拝んだ瞬間、佛の懐に引き込まれるような気がして、すっと肩の力が抜け爽やか気分になった。眼前の彿さんは黙ったままで何もしてくれるわけではないのに、不思議なくらい心安らいだ。こう考えてみると作為無く、たとえ問題があったとしても大丈夫になって行くクライエントの自己成長力を促してゆくことは、恰も仏様の如き包容力を持ち、どんな試練にもびくともしない力を兼ね備えた強い人間であることが要求されてくる。私は出家する時悩み苦しむ人を助けたいからだと思ったが、生易しい事で人を助けることなど出来ないのだ。その覚悟がこの道へ進む第一歩だと気付かされた。

 

 

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