あいまいの価値
 
 数年前エジプト旅行へ出掛けた。ピラミッドやアブシンベル大神殿、ルクソール神殿、王家の谷の壁画など、これが紀元前三千年のものかと思ったら、ビックリ仰天した。中でも印象深かったのは、アレキサンドリヤヘ行った時である。丁度金曜日で、モスクの中は言うに及ばず道路を埋め尽す人人人、皆が一斉に立ち上がり礼拝する姿に圧倒された。また巨大なモスクの天を衝くドーム形天井の異常なほどの高さ、柱一本もない広い空間、モザイクタイルで埋め尽された壁面、これには本当に驚かされた。またガイドからはこんな話を聞いた。「イスラムの人というのは、例えばある人が百のお金持ちだったとすると、隣に全くお金を持たない0の人が居たら、0の人は百持っている人の半分、つまり五十は自分が貰う権利があると考えるのです。だからエジプトは世界中から援助を受けても、決して感謝はしないのだ。」と。これを聞いた時、「そんな馬鹿なことがあるものか」と思った。
  さて話は変わるが、九・一一テロ事件から早六年、イラク戦争から既に四年半が経った。米国は「中東の民主化」を旗
印にテロとの戦争を続けているが、今なお成果は乏しく、米国とイスラムの確執は深まるばかりである。アラブ世界の真
ん中、イラクを民主化モデルにして、周辺諸国を変革するという米国の狙いは見事にはずれたと言わざるを得ない。我が国もこれに追随し、イラク支援のために自衛隊を派遣したが、住民からは必ずしも歓迎されなかった。そればかりか橋を架けろ、あっちを直せこっちを直せ、更には工場を誘致して自分たちの働き口を作れと、言いたい放題で、これが戦争で負けた国民の言うことかと思ってしまう。

彼らには感謝の念など欠けらもないのだろうか。そんな時ふっとガイドの言葉が思い出された。なるほど、お金持ち日本はその半分をアラブ諸国に提供する義務があり、それがアラブの論理だと考えれば、彼らの言い分も解らぬことはない。イスラエルとパレスチナの際限のないテロと報復、いつまで殺し合いを続ければ気が済むのかと、暗澹たる気持ちに成る。遥か遠い中東の紛争だから日本には関係ない、などと言ってはいられない。地球上何処で何が起こってもその影響は直ぐに日本にも及ぶ時代である。ではその解決の糸口は一体何処にあるのだろうか。そんな時、根岸卓郎著「文明論−文明興亡の法則」という本に出会った。結論から言えば、西欧文明の行き詰まりを解決する唯一の打開策は日本人が伝統的に育んできた「あいまい」さだと言うのだ。もう少し詳しく言うと、西欧人と日本人の思考方法の大きな違いは、脳の違いによるのだそうだ。一般に左脳は計算や分析など物事を論理的に構成して行く知的脳。一方、右脳は音楽や絵画など芸術的な方面を司る情緒脳と区分されている。西欧人は左右の脳がそれぞれ独立しているのに対し、日本人の場合は左脳の中に右脳が入り込み、左右の脳が一体化しているという。この一例が、「ききなし」で、虫の声や小鳥の囀りを単なる雑音としか理解しない欧米人に対して、日本人は、ほおじろの声を 「一筆啓上仕り候」と聞き、鶯の声を「法、法華経」と聞くのだ。また「長兵衛、忠兵衛、長忠兵衛」とメジロの声を聞き、フクロウのボーボーと鳴く声を「ポロ着て奉公」と聞きなすのである。何とも悲しげで憂いの籠もったフクロウの声に我が身を重ね合わせ、思わずポロ着て奉公となったのだ。他にも芭蕉の、「静かさや岩にしみいる蝉の声」というのもある。つまり左脳と右脳が同時に働いているところが非常に重要であ
る。日本人はイエスかノーかはっきり言わないから駄目だと、そのあいまいさを非難されてきた。しかし本当にそうなのだろうか。いや、「混沌の中に全体的な調和を創造してゆく」というふうに、むしろ積極的な意義を見出したい。

  フセインは「怪しからん、やっつけろ!」と強引に他国に侵略し、欧米型自由主義を押し付けようとした。しかしその結果はどうだろうか、今尚際限のない殺戮の応酬ではないか。この論理の行くつく所に真の平和が訪れるとは思えない。日本人の一見あいまいで捕らえ所がなく、優柔不断に見えるところも、言いかえれば全てを包み込んでゆく寛容さであり、神仏多神混合教徒的論理こそ、行き詰まった欧米文化に新たな道を開いてゆくのではなかろうか。こう申し上げると、イスラム世界にこんな考え方は絶対伝わらないから駄目だと言われるかも知れない。これを無理矢理に伝えようとすれば、結局従来の欧米的強引さで他人の庭に土足で踏み込むようなことになる。そうではなく、アラブ人自身が自ら限界を悟り、求めてくるまでこの 「あいまい」の価値を辛抱強く説き続けてゆくのである。いつの日にか結局これが世界平和への責献に繋がると思うのだがいかがであろうか。

 

 

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