目に見えない世界
 
 「悟りとは失って初めて気付く大事な事柄を失う前に知ることである。」と、ある人から聞いた。その大事なこととは何か。第一に父母の恩、次ぎに夫婦の絆、友人、国家、健康である。
 昔から 「親孝行したい時には親はなし」と言う。これは誰でも知っているが、親の生きている間に親孝行できる者はなかなかいない。私が修行を始めたばかりの頃、漸く暇を貰って懐かしい郷里に帰ったことがあった。雲水法衣に脚絆に草鞋、網代笠を被って颯爽と我が家に着いた。その晩はご馳走を食べ、僧堂の煎餅布団とは違ったふかふかの蒲団にくるまって寝た。深夜、肩を揺する者が居る。寝ぼけ眼で暗闇を透かしてみると母だった。声を潜めて、「ちょっとこっちにお出で。」という。はっは〜ん、みんなに内緒で、そっと小遣いでも呉れるに違いないと思った。ほいほいと母の後に付いて台所の隅まで行くと、「お前はもう家に帰ってこなくとも良い。この辺は田舎で、そんな変な格好で歩かれたらどんな噂を立てられるか知れない。これから兄にも弟にも嫁を貰わなければならない。お前のために来る嫁も来なくなったら大変だ、子供はお前だけではない!」ガ〜ン、いきなり頭をハンマーでぶん殴られたような気がした。外は冷たい木枯らしがひゅーひゅーと音を立て、心の中まで染み入るようだった。その夜は一睡も出来ず、「バカ野郎!金輪際こんな家に帰ってやるもんか。」と思い、這々の体で帰った。もう四十数年も前のことである。その母も十年前に九十三歳で死んだ。母との思い出は子供の時から沢山あるが、私はこの時の母が一番好きだ。では生前その母にどれだけ孝養を尽したのかと言えば、何もしてやることが出来なかった。「墓に蒲団も着せられず」である。死んで初めて深い愛情に気づいたのだ。

  次ぎに夫婦の絆。私は結婚していないので言う資格もないが、聞くところによると、夫婦なんぞ、結婚して四、五年も経つと、顔を見るのも嫌になるらしい。亭主元気で留守がよいと言うわけだ。知り合いで、猛烈な反対を押し切って恋愛結婚をしたのが居る。だが十年も経たぬうちに、氷河期を迎えて、殆ど口もきかなくなってしまった。この夫婦にしても、一度は好きで一緒になったのだから、たとえ目には見えなくとも、そこには二人を結びつける何かが作用して、結婚を決意し今日に至ったわけであろう。その目には見えないが、しかし確実に存在したであろう何物かを見いだす眼を持ち、努力しさえすれば、今とは又違った生き方を見つけられるのではないかと感ずる。
 次ぎに友人である。私にも今までいろいろな友人が居たが、残念ながら、その後の様々な経緯で、結局失ってしまった人もある。まっ、縁がなかった、と言ってしまえばそれまでだが、私自身に度量がなかったのかも知れない。通り一遍の付き合いなら其れなりに続いてゆくが、少し深い付き合いになってくると、相手の欠点がやたら目について、段々離れていってしまうのだ。夫婦でも友人でも馬が合うとか合わないとかいうものは理屈を超えたもので、結構重要なことなのかも知れない。勿論そういった友人ばかりではなく、一方では私を陰から支えて下さる有難い友人もたくさんいる。
 さて国家と言われても、ちょっとピンと来ないかも知れないが、パスポートを携え外国旅行をしてみると途端に国家を意識するようになる。それはパスポートは命より大切なものだからである。もし外国で事故や事件に巻き込まれたら、日本大使館や領事館が即座に保護し世話をしてくれる。パスポートの表紙を開くと一頁目に、「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。」と記されているのをご存じだろうか。ところが日本国内で生活していれば、まさしく日本人そのものなので、勿論パスポートは不要である。近頃「愛国心」について盛んに議論されているが、難しい理屈は抜きにして、日本人が自ら国家を愛し守らずして、国の安全が保証されるなどと考えているなら大間違いである。力と力の微妙なバランスの上に成り立っている国際社会では、自国を守るに必要な武力を持つのは当然のことであり、そのために愛国心は欠くべからざる事柄である。

  最後に健康についてだが、人は普通病気になって初めて健康の有り難さを痛感する。元気いっぱいの時には当たり前に思っていて、つい不摂生をし、後から痛い目にあう。そうなってから後悔しても遅いのだ。健康で溌刺としている時にこそ、大いに身を引き締めて一層健康に留意することが肝心である。
  さて幾つか具体的な例を挙げて目に見えない世界について申しあげてきたが、これらは総じて「こころの世界」ということである。「心こそ心迷わす心なれ心に心心許すな」この辺の處が結論になるだろうか。

 

 

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