お釈迦様の辿られた道
 
 四十数年前、私がまだ京都で小僧をしていた頃、師匠と雑談していた時のことである。「私は将来結婚せず一生修行を
し続けるんだ。」と言った。これを聞いた師匠は「お前はまだ若いからそんなことを言っているが、人間の心はどんどん変わって行く。やがて修行も止め結婚する時が来る。そうしたら、な〜んだ以前はあんな大きな事を言っていた癖に、と言われる。そんな出来もしないような大言壮語を吐くものではない!」と言い、さらに続けてこんな話しをしてくれた。
  禅僧として最も理想的な生き方は、お釈迦様と同じような道を辿ることである。お釈迦様は小国ながら釈迦国の王子としてお生まれになった。何不自由の無い生活をされ、最高の学問と武芸を身につけ、いわば文武両道に通じていたのである。これを現代版に訳せば、裕福な家庭に生まれ学問を極め、一方スポーツ、芸術など多方面の趣味にも秀でているということになる。ここまで聞いたところで、私なんぞ既に落第だと感じた。苦労知らずの、ぼんぼん育ちは駄目だと、一般的には考え勝ちだが、そうとばかりは言えぬ。確かに貧しければ我慢強く逞しくも成るが、そういう育ちの者はえてして何処か心がさもしい。誤解を恐れず申し上げれば「せこい」のだ。その点豊かに育った人間は大らかで良い。
  師匠はさらに話を続けて、お釈迦様はやがて年頃になり美しい娘と結婚、家庭を持ち子供も授かり幸せな日々を過ごした。「お前は生涯結婚なんかしないと言ったが、それは間違いだぞ。家庭を持ち子供も育て、様々な苦労を経験してこそ、一人前になれるのだ。結婚しないということが自慢には成らない。」

ところが、お釈迦様の偉いところはここからだ。普通の人間なら現状に満足して人生事足れりで終わってしまうのだが、これだけでは決して満足されなかった。一歩外の世界を見れば、元気だった者もやがて病み老い死んで行く。つまり生老病死の四苦に気づかれたのである。この人間の本来的な苦しみを解決せずに、真の幸せはないと思われ、ある夜二、三の侍者を従え、地位も財産も家庭も全て捨て忽然と山に入られたのである。これを現代版に訳せば蒸発で、お釈迦様という人は随分身勝手で、家内子供を泣かせてどうするんだと言いたいくらいだ。しかし個人的な小さな幸せよりも、人類全体の救済というもっと大きな視野での生き方を選択されたと言うことである。私も十八歳の時、親や兄弟の反対を強引に押し切って家を飛び出した。その点周囲に心配をかけ、不幸にしたという意味では似ていなくもないが、お釈迦様と比べては誠に不遜を免れない。
  さて、お釈迦様は前正覚山に入って行者のもと、凡そ九年間、難行苦行された。しかし遂に悟りを開くことは出来ず、山を降りられた。そこで尼蓮禅河の中州の村に辿り着かれ、村の娘から乳粥を供せられ、元気を取り戻すことができたのである。糸も張りすぎれば切れてしまう、緩んでいては良い音色は響かぬ。張り過ぎず緩め過ぎず、程良いところが大切、という娘の歌を聴き大いに感ずるところがあった。仏教の根本精神はこの「中庸」である。師匠は、「禅の修行というと直ぐに、前に立ちはだかる壁を片っ端からぶち破り、勇ましく突進して行くが如くに思うか知れないが、決してそんなものではない。体を痛めつけるだけが能ではなく、時に労らなければならない事もある。孜々兀々とした、地道な努力の積み重ねが肝心なのだ。」と言った。
  さて、日々紙面を賑わしているイラクのスンニ派とシーア派の際限のない抗争、一体彼らはいつまでこんな事を続けるつもりなのだろうか。はたしてこの先に平和が訪れるのだろうか。こういう状況を見るに付けても仏教とイスラムの違いが一層際だつ。どちらか一方が善で他は全て悪というような極端な考えに走ってはならないのだ。一見あいまいで優柔不断に思われるが、これこそが二十一世紀の地球を救うキーに成ると思う。

  さて話しを戻そう。お釈迦様は元気を取り戻し、近くの村、ガヤに到り菩提樹の下、金剛宝座に七日七晩座られた。八日目の朝、明けの明星をご覧になって、忽然と大悟され、そこから仏教が始まったのである。「修行は誰かに強制されてするものではない。ましてやお坊さんとしての資格を取るためでもない。お釈迦様は自分で考えこの様な道を辿られた。お前もこのお釈迦様と同じような道を辿れば良いんだ。」師匠はまだ修行も何も知らない私にこんな風に懇々と諭された。遥か四十数年も前の話しだが、今尚耳に残っている。現在、幾人かの弟子を待つ身になって、改めて当時の師匠の気持ちが分かるような気がする。これからも本当のことを言い続けようと思っている。私なんぞとっくのとうにこの世からおさ
らばしても、一人ぐらい私の話を思い出してくれれば本望である。

 

 

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