全てが独立した出来事であるにも拘わらず、奇跡的にすべてが同時に起こり、どんな曲よりも深く親しみ馴染んだマタイ受難曲の全曲を彼は一人静に聴くことが出来たのである。そして自然のままに安らかな大いなるものに命を委ねる心境になったのではないだろうか。これを臨床心理学者の河合隼雄氏は「意味のある偶然」と言っている。
こういう話しの後で私事を書くのは憚られるが、私が嘗て出家の志をたてた時、どのような手続きを踏んでお坊さんになれば良いのか皆目分からず困ったことがあった。そんな時、高校在学中、兄の隣の席にたまたま禅宗のお寺の息子さんが居たことを思いだした。そこを手掛かりにして横浜のK寺の和尚さんを紹介して貰い、その和尚さんの縁で伊深の梶浦逸外老師をご紹介頂いた。それからまた梶浦老師が嘗て小僧をして居られた京都の寺へと小僧に入ったのである。遡ればそもそも兄が件の高校へ入学したのも偶然のことで、本来は全く別の高校へ入る予定が、学校側の事務上の手違いがもとで、入学できなくなってしまった。当時これには両親も途方に暮れ、遠縁を頼ってこの高校に特別に入学許可されたのである。だからもし普通に事が運ばれていれば兄と禅寺の息子が巡り合うこともなかったわけで、そうなれば私と梶浦老師とも巡り合わなかったことになる。もし梶浦老師と巡り合わなかったら、多分今とは全く違った人生を歩んでいたに違いない。一つ一つの事柄は全て偶然の寄せ集めに過ぎないのだが、不思議に一本の糸によって繋がれているように見える。これも意味のある偶然と言えるかも知れない。では何故偶然が意味を持ってくるのかである。私はこの背景には「貫く思い」があるからではないかと感ずる。これをまた「正念相続」と言えまいか。
私の場合、十八歳で出家して以来四十数年間、ずっと修行したいという一念で来た。だから 私を取り巻く全ての事柄はこの気持ちで貫かれていて、見るもの聞くものすべてが修行に繋がるのである。何かを心に留めてずっと保ち続けていると、偶然のきっかけからその事と結びついて、一気に良い方向へ向かうということがある。もしその思いを心に温め続けていなかったら、おそらく何も知らないうちに通り過ぎてしまったであろう。常にアンテナを張っていたからこそ引っかかったわけである。
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