愛語
 
 言葉というものは物心付いたときから日常的に使っているので、気にも止めずにいる。しかしその中の幾つかの言葉は私たちに少なからず影響を与える。言葉は「言霊」ともいう。もう一度言葉の持つ意味を改めて考え直してみる必要があるのではないかと思う。希望を与える言葉は、聞くと希望が湧き、夢を与える言葉は、聞くと夢を持つ。言葉は単なる伝達手段に止まらず、相手を感動させる力を持っている。これを脳科学の方面から言うと、「ミラー細胞」を刺激し、その言葉を思い出すだけで元気が出て勇気が湧いてくるというのである。道元禅師は「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」と言っておられる。愛語とは、親愛の心をこめた言葉であり、廻天の力とは天地をひっくり返すようなはたらきをいう。尊敬する人の一言が衝撃を与え、その後の人生を決定づけるほどの、大きな影響を与えるということがあるのだ。
 四十数年も前、私が雲水修行をしていた頃のことである。師匠の梶浦逸外老師という方は方便下手というか、余り話しがお上手とは言えなかった。当時、講座は碧巌録を提唱しておられたのだが、どの則を講じられても、いつも話しは一緒だった。弟子の身ながら、もう少しいろいろと話しの種類を変えて貰えないものかな〜と内心思ったものである。まっ、真理は一つなのだ、と言ってしまえばそれまでのことだが、こちらは話しの端緒を耳にすれば、すぐさまその後の話の筋から果ては言い回しまですっかり覚えてしまった。

恰も舞台の役者が台詞を覚えるが如く、口の中でぶつぶつ言いながら先回りして喋っていたものである。だから講座での老師の話しは、右の耳から入って左の耳に通り抜けて行くのが常だった。中でも取り分け繰り返し話されたのは、「最後の最後の最後の々々々々……………最後までやれば必ず成る。やれるかやれないかではない。やるかやらないかだ!」この最後という言葉を一言一言力を籠めて、何十編となく繰り返しておられた姿が、今なお鮮やかに蘇ってくる。現在、私も師匠と同じ師家という立場になって、この時の一語一語の重さを改めて感じている。師匠は方便という点では、無骨で何の飾り気もない心情丸出しという言い方であったが、それがかえって、いかにも逸外老師らしく、今となっては涙が出るほど懐かしく有り難い言葉となって蘇ってくる。矢っ張りこういう言い方より他ないな〜と改めて思うのである。
 天竜寺の関牧翁老師が若かりし時、出家志願のため、当時の天竜寺関精拙老師を訪ねた。この時、精拙老師が、「どうして坊主になろうと思ったのか。」と質問されたので、牧翁さんは、「さんざ迷った末に出家いたしました。」と答えた。すると 「もう迷いはないな。」と言われたそうだ。この一言で、恰も清風が背中を吹き抜けるように感じ、心が決まったと言う。つまり、これから先、お前はもう迷うことはないのだと、はっきりと指し示して貰ったのである。
 さて先程のミラー細胞について話しを戻そう。もう少し詳しくお話しすると、たとえば私が水の入ったコップを持ったとする。それを見ている相手のミラー細胞は、私の真似をしようとコップを持つ格好をしているのだそうだ。贔屓にしているサッカーチームの選手がシュートする時、思わず右足に力が入ることがあるが、これと同じだ。ミラー細胞には、この様に行動を真似するばかりではなく、言葉に反応するものもある。大脳の一番前の前頭前野の下のほうにある運動性言語中枢は話を聞いているとき、盛んに活動し、中でも感動的な言葉にミラー細胞は刺激され、感情と結びついて言葉の意味する行為を起こさせようと真似するのである。つまりこれが言葉が我々に強い影響を与える理由なのである。言葉が強い感情を引き起こすとき、「ああなりたい」と、言葉の意味するところが細胞レベルで、自分のものとなり、この前向きな変化が続くと、次第に言葉の意味するような人間に自分が変わってゆく。

  ところで、新興宗教などで創始者の教祖さんが亡くなり、娘婿が二代目に就任するという例が良くある。こういう場合、内容は同じでもまったく説得力に欠けることがある。つまり言葉は真似できてもその心境に達していなければ内容は伝わらないのである。以前、プロ野球のあるバッティングコーチと話したことがある。彼が言うには、選手にバッティングについていろいろアドバイスをするが、なかなか打てるようにならない。そこへバッティングの神様と言われる監督がやってきてちょっとアドバイスをすると忽ち打てるようになったという。言葉は「言霊」と言ったが、ミラー細胞を刺激して、相手を根こそぎひっくり返すほどの影響力を持つ愛語はそう簡単なことではない。常に自分の心境を深く磨いておくことが一層大事なのである。

 

 

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