恰も舞台の役者が台詞を覚えるが如く、口の中でぶつぶつ言いながら先回りして喋っていたものである。だから講座での老師の話しは、右の耳から入って左の耳に通り抜けて行くのが常だった。中でも取り分け繰り返し話されたのは、「最後の最後の最後の々々々々……………最後までやれば必ず成る。やれるかやれないかではない。やるかやらないかだ!」この最後という言葉を一言一言力を籠めて、何十編となく繰り返しておられた姿が、今なお鮮やかに蘇ってくる。現在、私も師匠と同じ師家という立場になって、この時の一語一語の重さを改めて感じている。師匠は方便という点では、無骨で何の飾り気もない心情丸出しという言い方であったが、それがかえって、いかにも逸外老師らしく、今となっては涙が出るほど懐かしく有り難い言葉となって蘇ってくる。矢っ張りこういう言い方より他ないな〜と改めて思うのである。
天竜寺の関牧翁老師が若かりし時、出家志願のため、当時の天竜寺関精拙老師を訪ねた。この時、精拙老師が、「どうして坊主になろうと思ったのか。」と質問されたので、牧翁さんは、「さんざ迷った末に出家いたしました。」と答えた。すると 「もう迷いはないな。」と言われたそうだ。この一言で、恰も清風が背中を吹き抜けるように感じ、心が決まったと言う。つまり、これから先、お前はもう迷うことはないのだと、はっきりと指し示して貰ったのである。
さて先程のミラー細胞について話しを戻そう。もう少し詳しくお話しすると、たとえば私が水の入ったコップを持ったとする。それを見ている相手のミラー細胞は、私の真似をしようとコップを持つ格好をしているのだそうだ。贔屓にしているサッカーチームの選手がシュートする時、思わず右足に力が入ることがあるが、これと同じだ。ミラー細胞には、この様に行動を真似するばかりではなく、言葉に反応するものもある。大脳の一番前の前頭前野の下のほうにある運動性言語中枢は話を聞いているとき、盛んに活動し、中でも感動的な言葉にミラー細胞は刺激され、感情と結びついて言葉の意味する行為を起こさせようと真似するのである。つまりこれが言葉が我々に強い影響を与える理由なのである。言葉が強い感情を引き起こすとき、「ああなりたい」と、言葉の意味するところが細胞レベルで、自分のものとなり、この前向きな変化が続くと、次第に言葉の意味するような人間に自分が変わってゆく。
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