次ぎに冀くは某甲、臨命終の時、少病少悩、七日己前に、預め死の至らんことを知って、安住正念、末後自在に、此の身を捨て了って、速やかに佛土に生じ、面のあたり諸佛に見え、正覚の記を受け、法界に分身して、遍く衆生を度せんことを…」。これを見ても禅僧の場合も、ヘヤーインディアンに非常に近い感じがする。尤も禅僧は「良い顔」で死んで再生を願うこともなく、家族親族も無いのだから、思い出話をすることもない。死期を悟ると絶食し、坐禅を組み、禅定に入ったまま死ぬ。これを坐亡と言い、当に自在にこの身を捨て終わるのである。
次ぎに、人生を「生」の方から見る人々について考えてみよう。北欧のスエーデンなどヨーロッパ先進国には、我が国に沢山居る寝たきり老人が居ないという。これらの国々の老人達についてみると、最期まで生き抜こうとする姿勢、死ぬまでは自分の力で生きようとする強い意志を感じる。また老人のための施設や人的資源の豊富さにも驚かされる。これだけの設備と人間が居るからこそ、寝たきりを防ぐことが出来るのだろう。勿論、その費用は全て税金で賄われ、税金の額も桁違いに高い。
さて我が国の場合はどうであろうか。介護保険制度が始まって、一応体制は整ったかのようではあるが、介護士に支払われる給与などを見ても、これでは維持は困難と思われる。もともと日本人の場合はどちらかと言うと、「死」の方から人生を見るのを得意にしている。そういう風土の中へ西洋の考え方を輸入し、延命のための方策が取り入れられた結果、長寿国になったのである。だが、一人で生き抜くという姿勢や心根までは輸入されず、そういう文化の挟間の落とし穴に落ちて、沢山の寝たきり老人を抱えている。これが我が国の老人間題の根幹にあるのではないかと思われる。
グリム童話にこういう話がある。神さまは世界を作り生物に寿命を定めた。ロバに三十年を与えると、ロバは荷役で三十年も苦しむのは長すぎると訴えた。そこで神様は十八年減らして十二年の寿命を与えた。次に犬も噛む歯もなく唯唸っているだけなら堪らん。そこで十二年減らして十八年の寿命。猿も三十年は長すぎるというので十年減らして二十年の寿命。ところが人間だけ長生きしたいというので、神様はロバ、犬、猿から取り去った年を人間に呉れることになり、人間の寿命だけが七十年という長さになった。こうして人間は、最初の三十年は人間の年を生き、後の十八年はロバのように荷役に苦しみ、次の十二年は犬のように横になって喰るだけ、後の十年は猿のように間抜けになって子供の笑いものになった。この話、何らかの真実をえぐり出してはいまいか。
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