精密機械人間
 
 九月中旬二泊三日、御嶽山三合目にある新滝で滝行をした。いつもの仲間数人と現地の民宿で合流、午後三時半、第一回目の滝に入った。皆すでに十年以上経験を積んだベテランばかりだが、入っている姿を眺めながら、ふと思うことがあった。一つは、滝の直下では誰でも「本性丸出し」になるということである。水と言っても落差三十数メートルともなる
と、砂利が猛烈な勢いで頭に降り注ぐような感じで、頭蓋骨がメリメリ軋む。そういう場面では真剣勝負となり、ちょっとでも油断すると鞭打ち症になったり、はじき飛ばされて怪我をする。強烈な水圧で平衡感覚も鈍り、岩場のゴツゴツしたところでは蹴蹟いたり岩の角で足を傷つけたりと、危ないことこの上ない。そうなるとみな取り繕ってる余裕などなくなり、生地の姿が前面に出てくる。
 もう一つ気が付いたことは、滝は入る時より出る時の方が数段難しいということである。滝に入ったら、滝と一つになって無人の境を行くが如く打たれれば問題ないのだが、見物人を何処かで意識する。こうなるとつい頑張りすぎて程良い加減も解らなくなり、記憶喪失になったり体調を壊すもとになる。一人そういう者が出たが、数時間後には元に戻ったから良いようなものの、何事も引き際が肝心である。
 さて、今回の滝行は都合で、隠侍を連れずに出掛けたので、現地の民宿ではH氏と同室になった。彼とは長年の滝行仲間なので気心も良く知れており、こういう機会でもなければ同室もないことなのでお互いに喜んだ。

特に嬉しかったのは、彼が有能な整体治療師なので、毎日朝晩二回、私の体を治療してくれたことだ。そんな折り、彼にこんな質問をしてみた。ある人から不眠症の解決法として、左右小指の内側真ん中に、七ミリ四角に切った冷シップを張ると、とても良く眠れるようになると聞いた。早速試してみると効果抜群、すっと寝就くことが出来た。これは道理に適っていることなのか。すると彼は言下に、「適っている」と言った。但し、張る場所は小指に限らず中指でも人差し指でもどこでも良く、大きい
さも七ミリ四角に限らないというのだ。それはどういう事かと尋ねると、生物がこの地球上に出現したのは今から約三十
数億年前、海の中に単細胞の生物として現れた。それが徐々に進化し、地球が灼熱地獄のようになった時も、また全面凍結した時も生き延び、環境に適応しながら進化し続け、遂に今日の人類が出来上がった。だから人間の体は発達をなし遂げた超精密機械なのである。
 最近ロボット技術が発達し、人間そっくりに歩いたり駈けたり踊ったりするものまで現れて驚かされたが、あれは壁の後ろに居る技術者が膨大なコンピューターを駆使し操作しているので、考えてみればあの程度の動きは人間なら四、五歳児でも難なくやってのける。もし、人間をそのまま再現するロボットを作ろうと思ったら、高層ビル全部にコンピューターを詰め込むほどの機械が必要になるのではあるまいか。それでもまだ人間の動きだけを再現したに過ぎず、脳の働きまでを考えたら殆ど不可能に違いない。これ程までの精密機械を我々一人一人が既に持っているわけで、人間そのものの秘められた無限の能力を改めて感じずにはいられない。そこで彼が続けて言うには、自分のやっている整体治療にしても、その冷シップによる不眠症解決法にしても、どうやっても必ず効果はあるに決まっているというのである。「自分の整体治療なんて出鱈目です。」と断言した。それなら何故効果が現れるのかであるが、それは「安心の注射だ。」と言うのだ。人間、誰でも心の中に安心と不安という、全く相反したものが同居している。そのどちらか一方に針が振れることにより、健康になったり病気になったりする。つまり不安に傾けば、自信を失い気分は落ち込み、お先真っ暗、意欲喪失、結果あっちこっちに不具合が出てくる。

 反対に安心の方に針が動けば、自信が湧き意欲的になり、未来に希望が持て、心身共に爽快になって健康体を維持できるというわけである。従って彼の最も重要な仕事はいつも針を安心の方に向けることにあるというのだ。そすれば、元々が精密機械である我々の体は正常に動き出し、後は放っておいても自然に健康になるという道理である。私が小指に張った七ミリ四角の冷湿布は、素直に信じ、心安らかに横になったからこそ、忽ち効き目をあらわし、不眠症は解決したのである。こうして体のあっちこっちを揉んで貰いながら、彼の「人間精密機械説」を素直に信じ、私の肩の凝りや腰痛は忽ち吹っ飛んだ。誰でも素直に「安心の注射」を打って貰えさえすれば、精密機械は本来持つ潜在能力を発揮する。つまりこれこそが自然治癒力であり、その力が高まればどんな病も自ら克服でき、心身共に健康体になれるのである。

 

 

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