衆生済度
 
 数年前のある日、見知らぬ婦人が訪ねてきた。聞けば住まいは寺の近くで、山内の墓所に毎日墓詣りに来ているのだという。月に一回、両親の命日に墓参りする話はよく聞くが、毎日とは驚いた。「正面のお寺さんを訪ねて、一度自分の悩みを聞いて貰いたいと幾度となく思いながら、敷居が高くて蹄躇していたのですが、今日は勇気を鼓して参りました。」と言った。「そのご相談とは一体なんでしょうか。」とお尋ねすると、最初はもじもじと言葉を濁し、話しにくそうにしていたが、その内堰を切ったように話し出した。実は父親が別の女性のところで生活をしており、その間母親は悩み苦しみながら、遂に亡くなった。恨み骨髄というところであるが、最近父親が頻りに娘である自分に寂しさを訴え、察するところ老齢になって先方で余り親身な世話をして貰っていないようだというのだ。こんな身勝手な父親でしかもその為に母親は苦しみのうちに死んでいった。それを思うと知ったことかと言いたいところだが、もう一方では父親のことを不憫に思い、このまま放置することは出来ない。何とかしてやりたいと言う気持ちもあるが、目下先方の女性のところで生活していて、少しでも手助けしたいとは思うものの、話はそう簡単ではない。それやこれや頭の中が整理出来ずに、悶々とした日々を送っているのである。そんなせつない気持ちを何とかしたいと拠り所を求めて、毎日の墓詣りとなったようだ。「私はどうしたら良いのでしょうか。」ざっとこんな相談であった。

一部始終を伺ったものの、私には皆目解らない世界の話しで、さてどう答えて良いやら悩んだ。兎も角婦人は話しをしたことで、一応心は納まったようで帰られた。そんなことがあった後、暫くして、ふと私の心によぎるものがあった。あの時の受け答えだけで難問が椅麗さっぱり片づいたとは到底思えない。「又いつでもいらっしゃい。」と別れ際に言ったが、彼女は二度と訪ねて来ることはなかった。つまりこれ以上相談しても、何も解決は得られないと、私を見限ったのである。
  話は変わって、十年ほど前、知人だった和尚が五十代半ば、癌で亡くなった。彼は嘗て私が鎌倉の寺に初めて住職した頃、まだ僧堂の雲水で、短い間だったが、懐かしい思い出が幾つかあった。やがて彼は寺の住職となり、私も岐阜へ転住することとなり、離ればなれになった。それから何年か経った頃、別の友人から彼が癌に冒され危機的状況にあると知らされ、慌てて入院中の彼を見舞った。すでに傍目にも相当深刻な状況にあることが察せられた。しばらくして遷化したと言う知らせがあり、葬儀に出掛けた。長男はまだ中学生で、今後のことが心配されたが、気丈な奥さんなので、何とかやって行くだろうと思われた。それから何年か経ったある日、奥さんから、「一度お訪ねしても宜しいでしょうか。」と電話を頂き、どうぞと申し上げると早々にやってきた。久しぶりにお目に掛かると、表面的には元気を取り戻されているように見受けられた。午後の一時頃やって来て結局六時頃まで、約二年間に亘る闘病生活の経過や看護の様子を克明に話され、その間の精神的苦労が蘇ってきたのか、時折涙を浮かべていた。私はただ相づちを打つだけで、延々五時間聞き続けた。日もとっぷり暮れ辺りが闇に包まれる頃、帰路は四時間もかかる遠方なので、私が、「人に話を聞いて貰えば少しは気持ちが楽になると言うこともあります。いつでもお待ちしてますから又お出で下さい。」と申し上げ別れた。それから一年ほどした頃やって来て、前回同様約五時間、殆ど同じ内容のことを話して帰っていった。それから又一年してやって来て同様の話しをしていった。こういう遣り取りが四年ほど続いて止んだ。ひたすら聞き続けるこちらの根気も要ることで、結構しんどい思いもしたが、先方の苦しみを考えるとそんなことも言ってはいられない。

  このような二つの出来事があってから、ふと思った。衆生済度と言うが、結局私はこの二人を済度できていないのだ。人間の悩みや苦しみは、決して他によって救われることはなく、天は自ら助くるものを助くで、自分の力で克服し立ち直ってゆく以外に方法はないのだ。これが原則ではあるが、だからと言って突き放して我関せずで良いかと云えば、そんなことはない。差し伸べられない手を如何に差し伸べるかが問題で、そんなことがあって、臨床心理学を勉強しようと思い立ち、二年間ほど大学に通った。しかし結局方便などないと解った。ではどうするかであるが、修行の原点である、相手にひたすら成りきって、自らの力で立ち上がるまで根気よく、寄り添い傍らに佇み励ます以外にないと解った。これは猛烈なエネルギーを要することで、衆生済度とは当に私自身の修行を問われているのだと気付いたのである。

 

 

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