野狸の話し
 
  日経のコラムに面白い話が載っていた。『寛政六年、江戸で寺社奉行に抱えられていた老齢の儒者、講釈を終えて深夜遠い下屋敷に帰るのが億劫になり、「どんなボロの長屋でも結構ですから上屋敷に住居を給わりたい。」と懇願した。望みは叶えられ物置同然だったのを修繕してどうにか住めるようにした。引っ越したその夜から隣の長屋から一人の老人がしげしげ来て話し相手になるようになった。大変な物知りでいろいろな珍しい話しをしてくれる。天正頃の世相でもつい昨日の出来事みたいに生々しく語る。怪訝に感じながらも良い友達が出来たと談じ興じているうちに半年ばかりが過ぎた。ある夜この老人が改まった口調で言った。「長々お世話になりました。何を隠そう私は人間ではありません。そろそろ寿命が尽きましたので近日中に相果てると存じます。お別れに参りました。」と告げるではないか。その正体は何と後期高齢者の狸だったのだ。儒者は哀れがって、「何か好物があったら振る舞おう。」「それなら餅を振る舞って下され。ただ私はもう体力がなくなって人間に化けるのが大儀に成りました。明朝はご挨拶なしで。」と言って帰った。儒者が餅を用意して土間に並べておくと、縁の下から痩せ衰えて毛皮のはげちょろけた狸が出てきた。ゴホゴホむせながら餅を食べ終わると、また縁の下に入り込んで二度と姿を見せなかった。

これを読んで、無門関第二則、「百丈野狐」を思いだした。これは今から千二百年ほど前の話しだが、『百丈和尚が説法すると、いつも一人の老人が他の僧達と一緒に法を聞く為にその場にいた。説法が終わり僧達が去ると、その老人も何処かへ去って行く。ところがある日、老人だけがその場に残った。そこで百丈が老人に、「お前さんは一体誰なのか。」と尋ねると、「私は実は人間ではありません。ずっと昔、過去迦葉仏の時に、この山で住職をしておりました。ある時、修行僧が私に、悟りを得た人は因果の道理に落ちるでしょうかと尋ねたので、私は不落因果、因果に落ちないと答えました。その為に五百回も生まれ変わり野狐になってしまいました。どうか私に代わって一転語(一語を下すことで相手を翻然と悟らせる強い意味のある語)を答えて頂き、私を野狐身から解放して頂きたいのです。」と言った。そこで、老人は、「悟った人は因果に落ちるでしょうか。」と尋ねると、百丈は、「不昧因果、因果の道理を昧まさない。つまり因果の理に随順する。」と答えた。その一語によって老人は忽ち悟りを開き、礼拝して、「お陰でやっと野狐身を脱することが出来ました。そこで一つ願いしたいのですが、どうか私の為に僧侶の葬礼を行って下さい。」と言った。百丈は一山の紀綱を扱う僧を呼び、「昼食後、亡くなった僧の為に葬式を執り行う。」と告げた。僧達はいろいろ取り沙汰して、「皆健康で、病僧の為に設けられている涅槃堂にも別に誰も入っていない。これはどういう事なのか。」と不思議がった。昼食後、百丈は一山の僧達を連れて百丈山の奥の巌の下に行き、杖で一匹の死んだ野狐を突き出して火葬に付せしめた。夕方になって、百丈は講座台に上って、件の話を聞かせた。すると、黄檗が、「その老人は錯って一転語を答えたばかりに、五百回生まれ変わり野狐身に墜ちた。もし錯まらなかったら、一体何に生まれ変わっていたでしょう。」と言うと、百丈は、「こっちへ来い、お前の為に言って聞かせよう。」そこで黄檗は進み出ると、いきなり師匠である百丈の横面に平手打ちをくわせた。叩かれた百丈は手を叩いて笑いながら、「赤髭の達磨はわしだけじゃと思っていたに、もう一人の赤髭がおったわい。」と言った。

以上の通りだが、この話し、両方共に狸と狐という動物が登場する。内容は少々違うが、なかなか面白い。      実は昨年三月、中国祖跡巡拝旅行の折り、この話しに登場する百丈山を訪ね現場を見てきた。裏山には石段が綺麗に整備され、しばらく登って行くと中腹に大きな「野狐巌」と刻まれた巌があった。勿論後代の作り物だが、感慨一入であった。さてこの話の意味するところは一体何なのかだが、不落因果も不昧因果も結局同じことで、そんな言葉尻にとらわれていたら真実は見えない。この老人も一話目と同様元々狐だったのだ。しかし長屋の隣に住んでいた物知り狸の老人と言い、修行僧と一緒になって説法を聞いていた住職狐と言い、実に愉快な話ではないか。ここに登場する動物たちは動物園で飼育されている檻の中の狸や狐ではない。殆ど人間と変わらない存在で、しかも生き生きしている。現代のように機械文明に犯され、人間と物という対立軸でものを見ない時代には、この世に生きとし生けるものは一体となって、相互にコミュニケーションを取り合っていたのではないだろうか。何も架空のお伽噺ではない。本当にこう云うことがあったのかも知れない。鬱蒼とした百丈山の大巌の前に佇み、ふとそんな夢想が頭を巡った。

 

 

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