六つの条件
 
 我々が目的を見つけ、それを達成しようとする為には、様々な困難を乗り越えて行かなければならない。中でも次ぎに上げる六つの条件が揃っているか否かは重要な問題である。先ず第一は「野心」である。語感としてやや好ましからざる感じだが、言葉を置き換えれば、「大志」ということである。野心のない者に大事は果たせない。それは必ずしも、真理の追究とか高尚なものである必要はない。大金持ちになりたいとか、名刺に肩書きを羅列したいでも、何でも構わない。動機など幾ら不純でも良いのだ。私ごとで恥ずかしいが、昔或る理不尽な扱いを受けたことがあった。余りに腹が立ったので、知人の先輩に相談したらこう云われた。「儂はお前の方が正しいと思う。しかし、世間ではそうは思わないだろう。何故なら、相手がお前より世間的に上だからだ。どちらが正しいかは、ことの真相ではなく、どちらが社会的に上かで決まる。お前は一介の雲水に過ぎないのだから、お前の方が間違っていることになる。それが口惜しかったら相手より社会的に上になることだ。」この言葉が、その後の修行にどれだけ支えになったか知れない。「なにくそ!今に見ていろ。」という気持ちである。今思えば、穴があったら入りたいくらいで、面目次第もないが、その後の困難を乗り越える原動力になったことは間違いない。動機は不純でも良いという典型的な例である。

 第二番目は「知識」である。創造力は常に未知な問題と格闘せねばならない。この時、先人が過去に積み上げてきた知識をしっかり身につけると言うことは実に大切である。自分にはまだ見えていない先に、大きな世界が広がっていることを確信し、その為のねばり強い努力が必要である。
 第三番目は「執着心」である。「想い出すよじゃ惚れよがにすい、想い出さずに忘れずに」寝ても覚めても考え抜くねちっこさがなければいけない。ちょっと考えて分かるようなことなら、とっくに誰かが思いついている。私は自分の節目になるような大きな問題を抱えたときは何時も三年は考えることにしてきた。当然その途中では幾らでも「これで行くか」と思うときがある。しかしそれを自ら否定し続け、結論にはしないのである。やがて、心に納まりの良い結論を得ることが出来る。こう云うのは淡泊な性格の者には出来ない。兎も角、食らいついたら納得が行くまで深く追求して行く執念深さがなければいけない。頭の良い奴は直ぐに先を見てしまうから、ねばり強さに欠け、ただの評論家になってしまう。
  第四番目は「楽観的」である。禅の修行で言えば、お先真っ暗の連続なのだから、暗かったらとても続けては行けぬ。つまり楽観とは愚鈍であり、バカほど強いものはないのだ。修行中、老師から繰り返し「バカになれ!」と言われた。その時は余り深い意味が分からなかったが、今となれば、この「バカ」、なかなか奥深いものを感ずる。折角努力を積み重ねてきても、何かで蹴躓き絶望し一端投げ出してしまえば、全ては終わってしまう。「我は愛す、この鈍感を」である。
  第五番目は「論理的思考力」である。折角の知識も恰もただ本棚に並べているようでは何の役に立たぬ。目的に向かって蓄積された知識が、一筋の線となり、繋がってゆかなければ駄目だ。

 以上五つの条件を述べてきた。ここで、最も肝心な六つ目の条件である。それは「美的感受性」である。今までの五つの条件が生きるも死ぬも、全てはここに掛かっている。先の見えない暗黒の世界に一歩踏み出そうとする時は、人は誰も右するか左するか、二者択一の岐路に立たされる。そのとき、どちらがより調和が保れて美しい可能性が広がっているか、その判断は感受性の問題に尽きる。昔、私が鎌倉の寺の住職だった頃、東大航空工学のY教授と知り合った。先生の話を聞いていると、不思議に禅と結びつく点が色々あり、興味が尽きなかった。ある時こんな話しをしてくれた。先生のゼミには沢山の学生が押し寄せるため、ふるい落とすためのテストをしなければならない。その一つは、教室の中央に石膏のミロのビーナスをでんと据え、学生達に自由に描かせるというものだった。飛行機の機体を設計するのと、ミロのビーナスが何の関係があるのかお尋ねすると、「ミロのビーナスを見て美的感受性を刺激され、それを線で表すことが出来ないような者では、これから先、いくら努力しても、この分野で望みはない。」と断言された。なかなか意味深いことである。 さて今日の日本を顧みたときどうであろうか。日本はこれまでずっと経済優先で自然を破壊し美しい田園を潰してきた。その結果、美しい文学や芸術は廃れ、科学技術立国日本そのものも衰え、いつかは駄目になってしまう危険をはらんでいる。「才能は美しい環境が生む」と言うのは確かに不変の真理である。

 

 

ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.