執着心
 
  修行僧が二人、行脚の途中で、大きな川に差し掛かった。気楽な行雲流水の身、川なんぞ渡るのは屁でもない、ところがふと傍らを見ると、若い娘が渡れず難儀をしている。すると一人の雲水が、「お差し支え無ければ私が負ぶってあちら岸まで渡しましょう。」と言たが早いか、ひょいっと娘を背負うとじゃぶじゃぶ渡った。それからまた、何事もなかったように二人は歩いていった。しばらくして、一人の雲水が、「さっきはお前、良いことしたな〜。あんな若い娘を背負って。」と言った。すると一方の雲水は、「な〜んだ、お前はまだあの娘を背負っているのか。」実際に背負った方の雲水は、すっかり忘れているのに、背負えなかった方の雲水は何時までもその娘のことが忘れられず、心に留めていたという訳である。これは人間の執着心を象徴的に表した話しで、他人事と笑ってばかりはいられない。誰の心にも巣くう抜き難い執着の妄念、このために人はどれだけ苦しむか知れないからである。

 しかし一方では、この執着心があるからこそ、努力もし理想を目指して頑張れる訳で、一概に悪者扱いも出来ない。このねちっこさが、困難を乗り越える大きな原動力にも成るのだが、ここで重要なのは「何に執着するか」である。例えば地位・財産・名誉、どれも魅力的だが、中でも人間最大の執着は自分の命であろう。最近友人で突然医者から癌を宣告され、直ぐに手術、無事成功し安堵の胸を撫で下ろした人が居る。しかし癌の場合は転移という難物が後に控えており、安心は出来ない。術後の抗ガン剤治療も一応済んで、今はほぼ現役復帰を果たしたが、またいつ再発するか分からない不安を抱えている。これは神のみぞ知る、現代医学を以てしても尚未知の分野だと言うことである。こういった経験をした彼にとって、死は目前の問題であり、如何に生への執着を断つかは、心の内の大問題となっている。こう云う厳しい局面に立たされると、やれ名誉だ地位だ財産だ、などというのは屁みたいなもので、問題になってくるのは、命とは一体何ものぞやである。一休禅師の歌にこう云うのがある。「有漏路より無漏路へ帰る一と休み、雨降らば降れ風吹かば吹け」。漏とは煩悩のことで、習慣的になっている悪徳煩悩は、無意識の中にも、外部に漏れ出て悪業の原因となる。漏を有することを有漏といい、有漏である間は凡夫と言われ、三界六道に流転輪廻する。漏には欲漏・色漏・無色漏の三つがあり、それは順次欲界・色界・無色界の煩悩となる。つまり有漏路とは迷いの世界のことで、その反対が無漏路である。無漏とは一切の煩悩を離れて少しも残ることのないこと。つまり一切の煩悩を脱し清浄で消滅変化のない境地を言う。人間おぎゃ〜とこの世に生まれて以来、物心が付くと途端に欲の虜となる。小さな赤ちゃんが少し歩けるようになると、途端に兄弟でお母さんの膝の上の取り合いになる。大抵力の強い上の子が下の子を膝から蹴落とす。こう云うのを見ていると、はや煩悩の始まりかと、末恐ろしい気分になる。しかしまだこんな内は良いようなもので、年齢とともにエスカレートして、貪欲・瞋恚・愚痴の三つの根本煩悩に振り回され、心身を害するようになる。挙げ句の果ては人を騙して金品を巻き上げたり、ついには殺人まで犯すことにもなりかねない。これが当に有漏路である。そこを何十年か過ごすとやがて涅槃に入る。これはつまり死を迎えることで、これが無漏路である。死は哀しいとか残念とか言う見方ではなく、有漏路を彷徨い、三毒に浮沈し、心身を害していたところから、清浄の世界に移り変わって行くことでもあるのだ。この過程は誰でも通ってくる道筋で、もともと我々は無漏路よりやって来て、そうして元々のところへ帰って行くというだけの話しなのだ。となれば、ガタガタせずにでんと腹を据え、雨も結構じゃ〜ないの、風も良いもんですね〜、何でもござれ、折角頂戴した命のなのだから、大いに楽しんで自由に生きたら良いんじゃ。とまあ、一休禅師の歌の心境はざっとこんなものであろうか。

  この命、元々何も無いところから縁を頂いてこの世に生まれてきたのであり、いわば期間限定付きのリースである。だから縁が尽きれば当然お返ししなければならない。ところが、現実の我々はなかなか一休禅師のような心境になれず、どのように尽きるかも、自分で選ぶことは出来ない。突然ぽっくりあの世へ行けたらと望むが、誰しも希望通りにはいかない。長寿を保たれたものの晩年十数年間、半身不随の車椅子生活を余儀なくされた方を知っているが、本人が一番辛かったことだろう。お預かりした命、お返しするのも大抵やないのである。さて「執着からの脱却」だが、元々何も無かったのだという心の稽古を、日々怠らずすることが一番かなと思っている。

 

 

ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.