森の声
 
  ある人の娘さんがドイツ人と結婚した。それが縁で、二人連れだってちょくちょく日本へやって来るようになった。そのドイツ人の彼が最近頻りに日本の里山の素晴らしさを口にすると言う。ドイツにも森は幾らでもあるに違いないが、日本の森のどこが良いのかと聞くと、下草が繁茂している、むさむさしさが素晴らしいというのである。ドイツにはこの様な感じの森はないそうで、魑魅魍魎の息使いや、森に潜む生命のうごめきを感じるそうだ。これが何とも魅力で、そう言う山の中を歩くと、異世界と交流することが出来、大変幸せな気持ちになると言う。たしかに日本人は、自然の風景の中から、季節の微かな変化を敏感に感じとり、四季の移ろいに心を動かされ、そこから俳句や短歌を生み出してきた。春になれば待ち構えていたように梅見に出掛けたり、桜の季節は各地で花見が催され、テレビで開花予報まで出されるのである。これらは当に日本的情緒の典型と言える。

 前秋に、イギリスの友人宅を訪ねたとき、「紅葉狩りに何処かへ出掛けようか〜。」と言ったら、「イギリスではそんなことする人は一人も居りません。」と言われてしまった。イギリスでも黄葉する森は幾らでもあるそうだが、それを見る為にだけ、わざわざ出掛ける人は居ないらしい。「イギリス人は、はらはらと散る黄葉に、自分の人生を重ねると言うことはないのか。」と更に問うと、「そんなこと全然ありません。」と一言のもとに否定されてしまった。この時ほど日本人との精神構造の違いに驚ろかされたことはなかった。
最近、ある企業の会長さんがお寺にやって来るなり、「この感じは良いですね〜。」と頻りに仰る。この方は旧家の育ちで、小さかった頃、お祖父さんが当時有名な禅僧を招いては、坐禅を組み法話を聞く会を催されていたそうである。お寺の長い廊下、部屋の違い棚の置き時計、開け放たれた廊下越しに見える鬱蒼とした庭の木々、部屋に漂う空気、どれを取っても小さかった頃の思い出に繋がることばかりで、懐かしさが込み上げてきたと言うのだ。
この二人の話を聞いて大いに感ずるところがあった。現代は万事便利になり、効率的で快適な生活が出来るようになった。それは大変結構なことなのだが、その為に失ったものも多い。これは以前別なところにも書いたが、私が四国八十八ケ所巡礼の歩き遍路に出掛けたとき、歩くことがどれだけ人間を本来の姿に立ち直らせるかを身をもって知った。山越えの遍路道を歩ききって、ふと振り返ると、急斜面に張り付くように点々と家が建ち、その間を梅林が覆っている。この何の変哲もない四国山地の田園風景が、代え難い素晴らしさで私の心に迫ってきた。ただ歩くだけで、こんなにも自分の心の内と向きあい、味わい深く景色を見ることが出来たのである。       私たちは日常的に車やバス、電車を利用し、極めて効率的、スピーディーに暮らしている。これは一方で、日々本来の心を失っていると言うことでもある。しかし、それで何か不都合が生ずるかと言えば別段ない。便利で快適ならそれが一番!と言うことになる。ところがもっと広い視野で社会全体を見ると、何処か歯車が狂い始めているのではないかと危惧される。親が子を殺し子が親を殺す、またお年寄りが一生掛かって貯めた命の綱とも言える蓄えを、騙して掠め取り、平然としている事件など、有っては成らないことが日常的に頻発している。これらはどう考えても異常としか思えない。便利さばかりを追い求めるうち、我々の心は知らず知らずの間に蝕まれ、本来あるべき姿を失ってしまったのではないだろうか。

  嘗て人々の日々の暮らしは、自然と一体で、ゆったりとした時が流れていた。常に自分の心をそこに投影し、自然から生きる指針を学び教えられながら生きてきた。だから自然とは、人間の都合で利用するだけのものではなく、同等の価値を持った輩であったのだ。だから自然の持つリズムと歩調を合わせ、自然の発する声なき声に耳を傾け、会話するような気持ちで共に生活してきたのである。ところが現代は、丁度新幹線で矢のように飛ぶ車窓の景色を眺めているように、ただ効率一辺倒となり、その結果行き着いたのが自己喪失なのである。
最初にドイツ人が端無くも言ったように、日本人が古来より保ち続けてきた独特の自然観は、世界が注目する素晴らしい価値なのだが、日本人自身は全く気付いていない。それどころかアメリカ的合理主義を金科玉条のように思い、益々日本的情緒の大切さを忘れている。このへんでもう一度、近代合理主義から離れ、人間が本来持っている原初の速度で歩んでみれば、見落としたものに再び気付くことが出来るのではなかろうか。

 

 

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