不思議なこと
 
 はるか昔のことである。私が小学四年生の頃だったであろうか。ある夏の日の午後、畳にごろんとひっくり返って、一人でラジオを聞いていた。その頃の楽しみと言えば、子供向けのラジオドラマを聞くことだった。小さな洋品店を営んでいた両親は、朝から晩まで商売にかかりっきりで、我々子供の面倒なんぞみる暇などない。だから自分のことは皆自分でやる、これが我が家のきまりだった。ひとしきり連続ドラマを聞き終わると、寝転がったまま外を眺めた。窓からそよそよと心地よい涼風が部屋の中を吹き抜けた。「ああ、幸せだな〜」と感じた。しかし次の瞬間、「こんな幸せなことが何時までも続くはずはない。やがて人間は死んで行く。そうなればもう何もかも無くなって、この世に自分というものも無くなってしまう。」頭の中がぐちゃぐちゃになり、暗闇が心全体に広がっていった。こんな恐ろしい事は考えない方が良い。幾ら考えてもどうなるものでもない。忘れることだ、思わないことだと、頭を左右におもっきり振った。その後も、こういう思いが度々私を襲った。

時は経ち、今度は中学一年の頃である。当時兄と私は一部屋あてがわれ何時も机を並べて一緒に勉強していた。この時もある夏の午後だったが、私の机の前を一匹の蟻が横切っていった。じ〜っとそれを眺めながら思った。私たちは小さな同じ部屋で机を並べて同時に勉強している。ところが、蟻が机を横切るのを私は見ていても兄は見ていない。これは何と不思議なことだろう。つまり、私と兄はこんなに近くに居ながら、全く別の世界で生きているということになる。発端はたまたま蟻のことだが、考えてみると人は同じようで居て実はあらゆる場面で別々のところで生きている。しかし日常何の不都合もないと言うのも実に不思議なことではないか。さっそく兄にそのことを尋ねると、「言われてみればその通りだが、だからと言って、それがどうしたわけでもないし、よくわかんね〜な〜。」で話しは終わってしまった。
次はもっとずっと小さい頃のこと。我が家の裏に真言宗のお寺さんの墓地があった。当時は土葬が当たり前の時代で、時折朝から二人の墓堀りのおじさんが、一升瓶片手に現れると、その日は葬儀であった。おじさん達は、ぺちゃぺちゃお喋りしながら、合間に茶碗酒をあおり、暢気にスコップで墓穴を掘り出す。これをめざとく見つけた私は、一日中気になって仕方がない。当時の遊びは、ベーゴマ、メンコ、ジックイだったが、こんな日はちょくちょく遊びの仲間から抜け出しては墓穴堀りの進捗状況を覗きに行った。大体大人の背丈ほど掘ると完成で、間もなく棺桶が運び込まれ、埋葬となる。私にとってこれは是非とも見逃してはならぬ事柄で、しばしば覗きに行かなければならず、従ってそう言う日は遊んでいても気はそぞろ、忙しいことこの上なかった。やがて葬儀の行列が到着すると、読経が始まり、大人達は目を真っ赤に泣きはらしている。提灯や死花花を持ち、墓堀おじさん二人が荒縄で棺桶を釣り上げると、静に墓穴に降ろす。ここで泣き声は一段と激しくなり、各々が周囲の土を握って棺桶に掛ける。人渡りそれが済むとスコップで一気に埋め、こんもり土を盛り上げた上に、携えてきた品々を置く。最後に竹竿に釣った提灯をぐさりと差し込むと、それを潮に皆が引き上げて行く。私はいつも、誰も居なくなった墓地をじっと眺めていた。

私は自分が何故お坊さんになったのかという疑問を、ずっと持ち続けてきた。しかし今日に至ってもなお確たる答えを見いだせない。これが私の出家の根本なのだから、どうしてもハッキリさせたいと、長い間心に掛けてきた。そんなあるとき、歌人の馬場あき子さんの次のような文章に出会した。『いなかに百一歳の叔母がいる。いなかは奥会津である。若い日には山羊を飼って乳などを搾っていたので山羊小母と呼ばれている。……戦後六十年以上たって農村はまるで変わったが、家だけはいまでも残っていて、山羊小母はこの家に一人で住んでいた。家は戸障子を取りはずして、ほとんどがらんどうの空間の中に平然として、小さくちんまりと坐っている。「寂しくないの」と聞いてみると、「なあんもさびしかないよ。この家の中にはいっぱいご先祖さまがいて、毎日守っていて下さるんだ。」家の中のほの暗い隅々にはたくさんの祖霊が住んでいて、今やけっこう大家族なのだという。長く生きて沢山の人の死を看取ったり、一生という命運を看とどけてきた山羊小母にとっては、温とい思い出の影がその辺いっぱいに漂っているようなもので、かえって安らかなのである。……』と。この後まだまだ続くのだが、この文章を読みながら、何だか不思議に、私の心に潜む深い闇に、一条の陽が差し込んだような気がした。はるか昔、幼かった頃の事が鮮やかに蘇り、「これで良いんだ」と感じたのである。

 

 

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