これとは反対に、慎重派の人は、やれそうだと思っていても、うっかり嘘になってはいけないからと、「やれるかどうか分かりません。」などと言ってしまう。すると出来るものも、本当にやれなくなってしまう。結局は嘘でも良いから、出来ると言っておく方が良いのではないかと思う。しかし、誠が出てくるまで嘘を言い続けるのは、それほど簡単なことではない。一回ぐらいでは駄目で、繰り返し嘘をつく。時には、「この嘘つき野郎め!」と怒鳴られたり、「もう金輪際信用しないぞ!」などと言われる。それにもめげず嘘をつき通すのには、余程の忍耐と勇気が要る。またそれだけのしたたかさを持ち合わせて、初めて嘘から誠が生まれるのである。
雲水をしていた頃、先輩で既に十数年修行した人が居られた。たまたま隠侍でお茶運びをしていたら、隠寮から老師の声が聞こえてきた。「自分は必ず老師になるんだ、老師になるんだ、そう思っていれば必ず老師になれるんだ。俺はちょっと無理かななどと思っていたらなれんぞ!」と、大きな声で励ましておられた。結局その人の嘘は誠にはならなかったが、その時の老師の言葉は今でも耳に残っている。人間は総じて楽な方に行きたがり、安きにつきたがるものだから、高いところに目標を掲げ、嘘でもそう思い続けることが肝心で、前向きに生きることの大切さを諭しておられたのである。 さて、もう一つの嘘に、他人を褒めると云うことがある。譬え嘘だと分かっていても、「あなたは熱心で、誠実な人ですね〜、感心しました。」などと褒める。するとだんだん熱心な人になってくる場合がある。しかしこの嘘も実に難しい。あなたは熱心な人だと、言っていた相手が、怠けているのを見ることがあるからだ。それでも尚言い続けるのである。私が師家に成り立ての頃は、四十歳そこそこの若さと言うこともあり、つい雲水気分が出てしまい、ビシバシと厳しくやった。凡そ褒めるなどと言うことは全くせず、顔を見れば小言を言い、スカタンでもしようものなら、殴り飛ばしていた。ところが何年か経ち、結果的にこれでは人は育たないと悟り、爾来適度に褒めることにしている。相手の雲水の気根に合わせて、程良い加減が出来るようになったのである。年功を積み重ねた結果、方便が上手くなったと言えなくもないが、嘘から誠が出ることを、知るようになったからでもある。最近は特に褒めて褒めて褒めまくることにしている。この場合でも、裏切られることは幾らでもあるが、それでも褒め続ける、これも余程信念が要るものである。
さらにこう云う嘘もある。禅では究極の真理は言葉では表すことが出来ないという。「以心伝心教外別伝」と云われる所以である。碧巌録の一節に、「私は一夏九十日間、皆の為に仏法を説いてきた。しかし元来仏法を説くことなど出来ないのだ。昔から嘘を言うと眉毛が抜け落ちると云われる。どうですか?私の眉毛が付いているかどうか、ちょっと見て下さい。」禅の究極の真理について言うことは出来ない。一言でも言えば全て嘘になる訳で、人間嘘はつかない方が良いに決まっている。だからと言って、黙って何も言わないのが一番かというとそうでもない。その言えないところを言うのが、嘘から誠を引き出してゆくと言うことなのだ。禅は絶対自力で、自ら悟ってゆくより他ないのだが、悟りへの切っ掛けを作ってゆくために、禅僧は精魂を込めて嘘をつく。これも根気と勇気が要るものである。 |