再建の頃はバブル真っ盛りで、今から思えば大変良いチャンスに巡り合わせ、仏天の加護を感ぜずにはいられない。しかし、これは単に豪壮な伽藍を作るというのが目的ではなく、専門道場たるべく、ここで修行する雲水に、良い雰囲気の中で立派な修行をして貰いたいというのが最大の眼目であった。関係者一同、さあこれで瑞龍僧堂も多くの雲水がやって来て活況を呈するに違いないと確信した。ところが、一時期十数人になったときもあったものの、期待に反し、その後はじり貧傾向である。最近では春の入門シーズンを迎えても、入門者は殆ど無く、閑古鳥が鳴く状況で、再建の為の十年に亘る労苦は何だったのかとさえ思う。
原因は様々考えられるが、現在の雲水修行は修行自体が目的ではなく、住職資格を取ることが第一となっている。したがってなるべく規則も緩やかで易しいところが好まれ、そういった僧堂へはわんさと入門者が押し寄せ、三十数人にも及ぶと聞く。一方、少しでも厳しいと評判が立とうものなら、忽ち雲人は来なくなる。どんな僧堂で修行しようが、在錫年限に変わりはないのだから、当然の結果だが、大変困った傾向と言える。僧堂の命脈は規矩であり、古来より伝統的に継承されてきた細かな規則を、時代がどう変わろうと孜々兀々として相続して行かなければならない。しかしこれは相当難しい問題で、世の中に迎合して、「まっ、このくらいは良いか」などとちょっとでも迷った途端、規矩は際限なく緩んで行く。入門してくる若者は、今の時代に生まれ育ち、当然そう言う世間を引きずってくる。現在、学校や社会で起こっている様々な問題は、今や全て僧堂の中にもあると考えていい。したがって規矩はこれら全てと日々戦って行かなければ、維持できないのである。しかし一方では、さりとて人数が集まらなければ僧堂として成り立たないという現実もあり、そう言う狭間で日々葛藤しているのが今の私である。
そんな日々に、書類の間から落ちてきた鑑真和上のお言葉は、本当に救われた思いがした。和上はご存じの通り、日本へ渡る為、数度の難破に遭遇されても、挫けずに本願を遂げられた。これは日本に本当の仏教を広めたいという大願があったからこそで、私も鑑真和上を見習わなければならない。愁うることなく、必ず本願を遂げる為に一層頑張らなければと心を新にした。 |