多少生意気なところもあるがこれも愛嬌で、それよりも一生懸命な話しぶりはむしろ好感が持てる。そんな彼なのだが、ある時食事が済むと、こんな事を言い出した。「先生に一度お尋ねしたいとかねがね思っていたことがあるのですが、宜しいでしょうか。」「ああ良いよ。」「私はずっと全国各地を廻っていろいろな人にお話をさせて頂いているのですが、最近これで良いのだろうかと疑問を持つようになりました。それと言うのも、皆さんの前では立派なことをお話ししていても、自分の実生活はどうなんだろうか。煩悩もあれば欲望渦巻く真っ只中に居るではないか。言ってることと実際が違う。そう考えると以前のような気持ちで話が出来なくなってきましたし、胸の内が苦しくてしょうがないのです。どうしたら良いのでしょうか。」と言う質問であった。その時彼にこう答えた。「あなたは今実に良いところに差し掛かってきた。その通りです。もしそう言う疑問が少しも起こらなかったとしたら、それは堕落でしょう。人様に話しをすると言うことは、自らの内に向かって我が身に問い掛けると言うことでもあるのです。だからそう言う葛藤が心に湧いてくるのはまともな人間であれば当然のことで、そこで大いに苦しむことです。つまり、他に向かって説法しながら、同時に自らの内に向かって説法するわけで、そこには同時に内面の戦いがあるのです。当にそれこそが修行であり、あなたが人様にお話しをする場所があなたの修行道場なのです。決して誤魔化さずに、そこから逃げずにもっと大いに頑張って苦しんで下さい。そうすれば何時か必ず、あなたなりの心の置き所を得ることが出来るでしょう。それまで倦まず弛まず努力し続けて下さい。」
話は変わるが、先日、東京へ松原泰道師を訪ねた。凡そ十年前、ともしび会の講師として寺へ来られたとき、たまたま隠寮の床の間脇の棚に積んであった「瑞龍たより」に目をとめられた。「これは近年瑞龍講を興し、その講員向けに年三回発行しているものです。」と申し上げると、「では私も何か書かせて頂きます。」という有り難い申し出、爾来毎号原稿をお寄せ頂いた。師は昭和の初めころ、瑞龍僧堂に掛搭され、精道老師の下で修行された。会下とは有り難いもので、何年経っても嘗て修行した道場には特別な思い入れがあり、この様なお申し出を頂くことが出来たのである。そんな経緯でずっと原稿をお願いしてきたのだが、先日松原師より以下のようなお手紙を頂いた。失礼を顧みずその一部をご紹介申し上げる。 |