自浄錬磨
 
 うちの寺では毎月一回、市内のご婦人方を集めて、「お話を聞く会」を催している。と言っても、厳密には主催者は別にいて、うちの寺を会場としてお貸ししているだけなのだが、主催者の方とも日頃から大変親しくさせて頂いているので、段々年月を重ねてゆくうちに、共同主催のような気分になってきた。午後一時半から一時間半の会だが、講師の方が遠方からお越し下さる場合は、粗末ではあるが僧堂の昼食を召し上がって頂き、その後講演が始まるまでの間、しばらく個人的な話しをしたりで、それが結構私の楽しみにもなっている。 ある時、講師として奈良のT師が来られた。彼は今年四十歳になったばかりの若手だが、なかなかしっかりした方で、全国各地を廻って講演を続けていると言う。場数を踏んでいるだけのことはあって、羨ましいほどの落ち着き振りには、ほとほと感心させられる。

多少生意気なところもあるがこれも愛嬌で、それよりも一生懸命な話しぶりはむしろ好感が持てる。そんな彼なのだが、ある時食事が済むと、こんな事を言い出した。「先生に一度お尋ねしたいとかねがね思っていたことがあるのですが、宜しいでしょうか。」「ああ良いよ。」「私はずっと全国各地を廻っていろいろな人にお話をさせて頂いているのですが、最近これで良いのだろうかと疑問を持つようになりました。それと言うのも、皆さんの前では立派なことをお話ししていても、自分の実生活はどうなんだろうか。煩悩もあれば欲望渦巻く真っ只中に居るではないか。言ってることと実際が違う。そう考えると以前のような気持ちで話が出来なくなってきましたし、胸の内が苦しくてしょうがないのです。どうしたら良いのでしょうか。」と言う質問であった。その時彼にこう答えた。「あなたは今実に良いところに差し掛かってきた。その通りです。もしそう言う疑問が少しも起こらなかったとしたら、それは堕落でしょう。人様に話しをすると言うことは、自らの内に向かって我が身に問い掛けると言うことでもあるのです。だからそう言う葛藤が心に湧いてくるのはまともな人間であれば当然のことで、そこで大いに苦しむことです。つまり、他に向かって説法しながら、同時に自らの内に向かって説法するわけで、そこには同時に内面の戦いがあるのです。当にそれこそが修行であり、あなたが人様にお話しをする場所があなたの修行道場なのです。決して誤魔化さずに、そこから逃げずにもっと大いに頑張って苦しんで下さい。そうすれば何時か必ず、あなたなりの心の置き所を得ることが出来るでしょう。それまで倦まず弛まず努力し続けて下さい。」
話は変わるが、先日、東京へ松原泰道師を訪ねた。凡そ十年前、ともしび会の講師として寺へ来られたとき、たまたま隠寮の床の間脇の棚に積んであった「瑞龍たより」に目をとめられた。「これは近年瑞龍講を興し、その講員向けに年三回発行しているものです。」と申し上げると、「では私も何か書かせて頂きます。」という有り難い申し出、爾来毎号原稿をお寄せ頂いた。師は昭和の初めころ、瑞龍僧堂に掛搭され、精道老師の下で修行された。会下とは有り難いもので、何年経っても嘗て修行した道場には特別な思い入れがあり、この様なお申し出を頂くことが出来たのである。そんな経緯でずっと原稿をお願いしてきたのだが、先日松原師より以下のようなお手紙を頂いた。失礼を顧みずその一部をご紹介申し上げる。

『……思えば拙稿で長年にわたり貴重な誌面を汚すお許しを頂きまして有り難く御礼申し上げます。私も老朽いよいよ甚だしく、視力も日増しに衰え、拡大鏡左手に原稿用紙に認めてまいりましたが、ここ数日原稿用紙の升目も見難くなり、執筆不可能に成りました。つきましては今回で打ち止めにお願い申し上げ度御許容の程を懇願申し上げます。佐藤一斎が言志録で「視聴覚が衰えても見え聞こえる限り学廃すべからず」の至言を念頭に努めて参りましたが、私の限界に達しました。何卒事情をお察しの上お許し下さるようお願い申し上げます。ご指導頂いた母僧堂の法恩の万分の一でも報恩をと念願しましたが、一斎先生にお許しされるか否かわかりませんが、私の潮時かとも存じます。戦前の瑞龍僧堂や本堂と老師により復興頂いた新瑞龍寺伽藍や境内をいつも心に思い浮かべております。ただいま八月三十一日午前四時少々過ぎです。老人症状で深夜十二時頃に目が覚めて眠れないので、二時頃に起きて書斎に入りますが、やがて文字が見えなくなって参ります。私の命終時も秒読みに入りました。ご法體御堅固を幾重にも念じ上げます。合掌』 この手紙の三ケ月後に、目出度く満百歳を迎えられた師は、臨済のみならず各宗からも要請され、凡そ八十年の長きにわたり、説法し続けて来られた。拝読しながら、自浄錬磨の生き証人を見る思いであった。

 

 

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