いのちの絆
 
 最近二人の友人に相次いで孫が生まれた。それぞれ第二子なので、喜び方も落ち着いたもので、ぐっと奥歯で噛みしめているような雰囲気が伝わってきた。いずれにしても、誠にお目出度いことで、母子共に健康というのだからこれに勝るものはない。ところが、一人の方の話によると、どうも赤ん坊にしてはおとなし過ぎるし、何となく異変を感じ、小児科に診せた。すると、大病院で詳しく見て貰った方が良いと言われ、大慌てで駆け込むと、細菌感染の疑いがあるという診断。詳しい検査の結果は、心配したほどのこともなく、約二週間の入院で無事戻り、安堵したそうである。このように子育ての大変さは今更言うまでもなく、夜もおちおち寝ていられない日々が続く。これほどまでして育てても、ちょっと大きくなって反抗期でも迎えようものなら、「頼みもしないのに、勝手にうみゃ〜がって……。」と悪態をつく。

普通ならとてもやってられない話だが、親はなんと言われようともめげずに愛情を注ぐ。ひとえに子供が可愛いからである。子供を一人前にするには、二十年以上も精神的肉体的金銭的多大な負担を負い続けなければならない。そしてやれやれと思った頃には、こっちはよれよれ老人になってしまう。考えてみると親は本当にご苦労さまなことである。しかも子育てには何の見返りも求めないのだから。「子を持って知る親の恩」とは当にその通りである。かく言う私は、子供も持たず親の苦労など何一つしないで、この年齢まで来てしまった。世間の親の方が余程修行しているな〜と思うことがある。まっ、形を変えて、弟子を育てるのも子育てと同じという見方も出来るが、天は自ら助くるものを助くだ、と便利な言葉を引用して、誤魔化してしまうところもある。これがもし実の子供ならそんな暢気なことは言ってられない。灰頭土面、自分は泥だらけになってでも、子供を救うに違いない。尤も我々の救い方は世俗の救い方とは違っていて良いのであり、また別の見方もあるのだが。
さて、逆境に直面し、進退窮まったとき、誰しも自分の母親を思う。特に我々の年齢では親は大抵が明治生まれ、出発点からして相当違う。だから一層インパクトが強く、胸に迫ってくるのである。映画監督の新藤兼人著、「いのちのレッスン」を読み、中で母親の想い出を書いている部分には胸を打たれた。少し引用させて貰う。『…私が母のことを思うようになったのは、五十歳を過ぎてからである。それまでは、目の前のこと、仕事のこと、つまり自分のことだけを考えていたような気がする。親が子供を育てるのは、あたり前のこと、とも思っていた。しかし、意識が成熟してくると、母から受けたことが、わたしを生かしてきた貴重な核に成っていることに思い至るのである。…お母さんは広島市内から田舎の百姓の家に嫁いできた。町の女性が田舎の百姓生活に慣れるのには、よほど努力が必要であったことだろう。しかし、みごとな百姓になった。母さんは三度の食事の支度の合間に家の前の、目もくらむような広さの田んぼへ出た。暖かい広島地方では稲と麦の二毛作だったから、秋に稲を収穫したら、残った稲の株を起こさなければならない。今のように機械があるわけではないから、鍬で何万株という稲の株を、一株一株、起こしてゆく。それは気の遠くなるような大変な仕事だったと思うが、それをあたり前のこととして黙々とやる。ずっと後になってこれは大変なエネルギーを必要とする立派な仕事だと思った。このお母さんのエネルギーはわたしにも受け継がれているのだ。こう思えば、どんなことにも耐えられる気がした。わたしは、お母さんから力をもらって生きてきたのである。…』

今の時代、親孝行というと、手土産ぶら下げて親の顔を見に行ったり、もう少し豪華版になると温泉巡りや海外旅行へ連れて行き、孫と一緒に買い物したり散歩をしたり、喜ぶ顔を眺めながら、親孝行が出来たわいと満足する。しかしこれは子供の側が、そう思っているだけで、親はそうは思わない。そんな表面的な喜びなどどれ程のものか。私はいつもいのちの絆と言うことを考える。小さい頃、親は子供の前に立ちはだかる大きな壁だった。幾度体当たりしたところで、その度にはね返され、絶望し反抗した。しかしそのお陰で足腰が鍛えられ、その後様々な困難にも挫けことなく、何とか乗り越えてゆく力を培うことが出来たのである。これが親から貰ったいのちの絆である。私の親は昔のことだから大した学問もせず、ひたすら子供を無事に育てることだけを考え、一生を終えた。この世に存在を知らしめるものなど何処にも残していない。人の一生は飯の上ばの湯気のようなものと言うが、当にそんな生涯だった。しかし、私の中には今なお生き続けている。私が挫けずに頑張ることが出来るのは、父と母から力を貰っているからである。それを思い、生を全うすることこそ、最大の親孝行だと思っている。目に見える物など、親の前にいくら積んだとしても、済んでしまえば跡形もなく消え去る。目に見えない、いのちの絆を受け継ぎ、親を乗り越えて行くことが、真の親孝行なのであり、何よりも価値のあることなのである。

 

 

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