普通ならとてもやってられない話だが、親はなんと言われようともめげずに愛情を注ぐ。ひとえに子供が可愛いからである。子供を一人前にするには、二十年以上も精神的肉体的金銭的多大な負担を負い続けなければならない。そしてやれやれと思った頃には、こっちはよれよれ老人になってしまう。考えてみると親は本当にご苦労さまなことである。しかも子育てには何の見返りも求めないのだから。「子を持って知る親の恩」とは当にその通りである。かく言う私は、子供も持たず親の苦労など何一つしないで、この年齢まで来てしまった。世間の親の方が余程修行しているな〜と思うことがある。まっ、形を変えて、弟子を育てるのも子育てと同じという見方も出来るが、天は自ら助くるものを助くだ、と便利な言葉を引用して、誤魔化してしまうところもある。これがもし実の子供ならそんな暢気なことは言ってられない。灰頭土面、自分は泥だらけになってでも、子供を救うに違いない。尤も我々の救い方は世俗の救い方とは違っていて良いのであり、また別の見方もあるのだが。
さて、逆境に直面し、進退窮まったとき、誰しも自分の母親を思う。特に我々の年齢では親は大抵が明治生まれ、出発点からして相当違う。だから一層インパクトが強く、胸に迫ってくるのである。映画監督の新藤兼人著、「いのちのレッスン」を読み、中で母親の想い出を書いている部分には胸を打たれた。少し引用させて貰う。『…私が母のことを思うようになったのは、五十歳を過ぎてからである。それまでは、目の前のこと、仕事のこと、つまり自分のことだけを考えていたような気がする。親が子供を育てるのは、あたり前のこと、とも思っていた。しかし、意識が成熟してくると、母から受けたことが、わたしを生かしてきた貴重な核に成っていることに思い至るのである。…お母さんは広島市内から田舎の百姓の家に嫁いできた。町の女性が田舎の百姓生活に慣れるのには、よほど努力が必要であったことだろう。しかし、みごとな百姓になった。母さんは三度の食事の支度の合間に家の前の、目もくらむような広さの田んぼへ出た。暖かい広島地方では稲と麦の二毛作だったから、秋に稲を収穫したら、残った稲の株を起こさなければならない。今のように機械があるわけではないから、鍬で何万株という稲の株を、一株一株、起こしてゆく。それは気の遠くなるような大変な仕事だったと思うが、それをあたり前のこととして黙々とやる。ずっと後になってこれは大変なエネルギーを必要とする立派な仕事だと思った。このお母さんのエネルギーはわたしにも受け継がれているのだ。こう思えば、どんなことにも耐えられる気がした。わたしは、お母さんから力をもらって生きてきたのである。…』 |