私が京都で小僧をしていた若かりし頃、当時、和尚は独身で、小僧も一人きりだった。だから作務もお茶も食事もいつも一緒で、そんな折り和尚はいろいろな話しをしてくれた。中でも印象に残っている話は、男女の出会いについてである。「これだけ世の中沢山人が居るが、その中で男女が出会い、お互いに引かれ会うのは、分相応の者同士なのだ。もしお前が百万人に一人というような男なら必ず百万人に一人という女と出会う。お前が百人に一人程度の男なら、出会う女も百人に一人程度の女に成るのだ。だから自分を磨いておけ。」まだ二十そこそこの私は、「へ〜そんなものなのか。」と思っただけだったが、今にして思えば、これはなかなか含蓄の深い話しでである。仲の良いAさんとBさんが居たとする。この時の人間関係はA、Bそれぞれにとって、向こう側とこっち側にいた双方がたまたま歩み寄って出会ったとしか思えまい。しかし何事もお見通しのお天道様にはまる見えで、AとBの生きてきた歩みと軌跡から、二人は交わるべくして交わったと言えるのだ。だから若い二人は、そのなれそめを、本人達は偶然だと言うだろうが、それは単なる偶然で片付けられるものではなく、お互い出会う運命にあったといえる。似たもの同士とか、類は友を呼ぶなんて言葉もあるように、人間関係は人と人が出会うことから始まる。状況的にはどうあれ、自分がこんな風に生きてきたから今、この人と巡り会えたのだ。
五十年近く前、私は出家の志を立て、兄の縁で横浜の和尚さんに出会い、その縁から伊深の梶浦逸外老師に巡り会った。そこから京都の和尚さんにご縁を頂き、爾来様々紆余曲折はあったものの、今まで挫折することなく修行を続けることが出来た。思えば何と有り難い巡り会いの積み重ねであったことか。このうちのどれ一つ欠けていても今の私は存在しないのだから。これまで数え上げたら切りがないほど沢山の人と巡り会い、どれ程身に余るご指導賜ったか知れない。多くの人達との巡り会い一つ一つが、かけがえのない尊い存在なのである。 |