尼僧の一念
 
 八年前、臨済宗と黄檗宗が合同で尼衆専門道場を設立した。尼僧さん達が専門に修行する道場は、三十数年前までは京都の北白川にあったのだが、そこの道場の老師が亡くなられ、後継者もなく、自然消滅的に無くなってしまっていた。それ以降の尼僧さん達はどのように修行していたのかと言えば、種々の縁を頼って男僧堂の老師にお願いし、近くの寺から通参したのである。この方法でも一応修行は出来るが、参禅や講座には参加できても、その他の僧堂行事には男と一緒という訳にも行かず、本格的な修行は出来ない。矢張り僧堂の中で寝起きし、厳格な規矩の下、早朝より深夜にいたるまで、行事をこなしてこそ雲水修行である。そこで妙心寺派が発起人となり、臨済宗・黄檗宗各派に呼びかけ、宗門全体で資金を調達し、岐阜市野一色の天衣寺に尼僧さんの専門道場が出来たのである。平成十四年四月開単、第一期生五名が入門してきた。人少ながら三十数年振りの尼僧堂復活は慶賀の極みであった。

 さて瑞龍寺の規矩に順じ、曲がりなりにも僧堂らしくなって一年ほど経過したとき、その内の三人は早くも引いた。幸い翌年春には又新しい入門者がやって来たので、全体の人数には変わりなかったが、一期生のうち、また一人引き、二年経ったら最初に入門した者で残っているのはたった一人になってしまった。尼僧さんというのは世の中の未練を断ち切って、髪を下ろし生涯孤独な修行の世界に生きる決意をした者と思っていたのだが、予想に反し、尼寺での生活をしてみたいからとか、父親の跡を継いで寺を護持する為とか、等々実に下世話な理由による者が多いのに驚かされた。これでは男僧堂と少しも変わらぬではないか。その後八年を経過して、本格的修行を志す者も何人か出てきて、将来に期待が持てるようになったが、余りにもさばさばした考え方には、何とも解せぬ思いであった。頭は丸めても又毛は生えてくるわ、と言うことだろうか。
  そんな折り、一期生で三年ほど修行して引いた尼僧がひょっこりやって来た。彼女は厳密に言うと尼僧の格好はしているが尼僧ではない。つまり寺に住んで宗門人としてやっていないからだ。ではどうしているのかというと、岩手県の田舎に、在家の方が設立した施設で、十人前後の逗留者のお世話をしているのである。いろいろな理由で家に居られないとか、登校拒否の子供など、小学生から八十歳の老婆までいるそうだ。彼女は尼僧堂に来る前からそこの施設で仕事をしていたようで、わざわざ尼僧になる必要も無かったのだが、主催者の人に勧められてやって来たのである。修行も最初から三年間と限定し、再び施設に戻って預かっている人達のお世話をすると決めていたようである。当時引くと言ったとき我々は引き留めたのだが、後からそういう事情の者と分かって、納得した次第であった。人にはいろいろな生き方があるので、善し悪しは一概に言えないが、そんな状況でいつまで続けて行けるものか危惧した。彼女が僧堂を引いて五年ほど経った今年、久しぶりに顔を見せにやって来たのである。聞けば、既に三ケ月前より、全国托鉢行脚を続けているという。北海道・青森・岩手・新潟・長野・山梨、そして数日前から岐阜へやって来たのである。目的はその施設の本堂を建立する資金集めだそうで、一年間日本国中を経巡り托鉢を続けるという。この発願をしたとき、その志しに賛同して、施設の応援者の一人が、キャンピングカーを寄進してくれたと言う。見ると、顔もつやつやして元気一杯だったので少し安心したが、それにしてもこの小さな体で吹けば飛ぶような細身の彼女が、一年間も続けていけるものか心配になった。

一週間に一日は休息日にしているようだが、一年間とは容易ならざる事である。今までに、一体幾らぐらい送金できたのか、立ち入ったことだが聞いてみると、多い月で二十万円くらいだそうだ。これで行くと年間トータルで二百四十万円、この金額の多寡は何れにしても、単なる労力として考えたら、割に合う話しではない。またその金額が本堂建築にどれだけ助けになるかを考えると、失礼ながら微々たるものと言わざるを得ない。つまり、彼女にとっては、金銭の問題ではなく、一年間全国を托鉢行脚し続けると言う修行を、自らに課したと言うことなのだろう。これを無駄なことだと言う積もりはないが、これだけの苛酷な修行を自らに課する気持ちがあるなら、何故雲水修行を少なくとも十数年くらいはやってからにしないのだろうか。修行は自分の我執を断ち切る為に良き師に就いて、徹底的にしごいて貰わなければ、独りよがりの野狐禅に陥る。ただがむしゃらにやれば良いというわけではないのだ。しかし軟弱な現代に、こう云う願心を持った尼僧が居るとは、今時の若者も、まんざら捨てたものではないと感じた次第である。

 

 

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