典座の留護は英さんという人で、私の仕事はというと専ら後片づけであった。そこで大きなハソリや飯器、汁器など次々に洗った。また臘八中の漬け物は特別に白菜が出され、その分量も並ではない。暇を見ては葉っぱの根本まで入り込んだ糠を丁寧に落とし、綺麗に揃えて切っては大きな寒天流しに並べた。英さんは忙しい仕事の合間に、「どうじゃ、上手に切っとるかな。」そう言っては覗き込んで、「綺麗に並べたな〜!」と感嘆の声。どんなもんだいと、思わずほくそ笑む。典座寮だけは寮舎に炉が切ってあり、竃の焚き落としをこんもり盛り上がる程入れて、冷え切った手足をしばし温めることができた。私は夕方四時になると禅堂に詰めて、雲水と一緒に十二時まで坐った。こんな調子で二,三日過ぎた頃、知客さんが来て、「今日の八つ喚から参禅をしなさい。」と言われた。作法もまるで分からない三人が参禅室に連れて行かれ実地訓練、何とか合格となり、いよいよ参禅デビューである。
初めて入った参禅室は一種異様な雰囲気で、老師が正面の床の間を背にじっと半眼のまま坐禅をしておられた。それだけでもう気も動転するばかりだったが、何とか教えられた通りの作法を終え、
見解を呈した。「如意棒」蚊の鳴くような声、「なに!もっとはっきり言え!」今度は思いっきり大声で、「如意棒!」と怒鳴るように言うと、その声が終わるか終わらないうちに、「バカ〜!」。障子がビリビリ震えるほどの大喝一声。続いて、「室内を冒涜するな!」びっくり仰天。何が何だか訳が分からないうちに第一回目の参禅が終わった。兎も角酷く不始末をやらかして、思いっ切り叱られたと言うことだけは解った。がっくり肩を落として、とぼとぼ寮舎に戻ると、その余りにも情けない顔を見て英さんが、「どうだった?」と聞いた。「もう二度と来るな!と言われました。」と答えると、「清田君、参禅は一回打てば必ず一歩進むものだ。どんな見解でも良いんだ。行かなけりゃ〜駄目だぞ!」と慰めるように説いて聞かせてくれた。彼はその頃まだ僧堂は一年半ほどの、駆け出しの雲水だったのだが、こういう事が言えるのは、今にして思えば本当に凄いことだ。
英さんはその後どういう事情か知らないが、結局還俗してしまったと聞いた。縁が無かったと言えばそれまでだが、小さいときに相次いで両親を亡くし、妹と共に地元の寺に預けられ、爾来ずっと小僧生活だったのである。余程深慮の結論であろうから、私などがとやかく言えることではない。今頃きっとどこかで幸せに暮らしていると思う。さて惨憺たる参禅で始まった私の修行だが、お陰で途中挫折することもなく、二十年間続ける事が出来た。そして今、私が雲水を指導し参禅を聞く側になり、ふと、このときの梶浦老師を思い出すことがある。あの大喝一声の「バカ!」はこれから始まる困難な修行への激励の一句であり、渾身よりほとばしり出た親しみの一句だったのである。しかしこれが解ったのは自分が雲水の参禅を聞く立場になった、三十数年も経ってからなのである。
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