大喝一声
 
四十数年前のことである。学校で基礎的な宗教教育を受け、いよいよ本格的な道場での修行が始まる年の一月のことである。ぐうたらに過ごした在学中を自ら反省し、気持ちに区切りをつけるため、最も厳しいと言われている臘八大接心に参加したいと思った。その旨僧堂の知客さんに申し出ると、快く引き受けて下さった。勇んで出立する前日、友人のK君に「俺は明日から臘八大接心に参加するぞ!」と言うと、「それじゃ〜俺も参加しよう。」と即座に決めた。我々とは別に既にN君も参加を決めていたようで、結局三人の学生が雲水に混じっての臘八修行となったのである。
さて僧堂に到着して副司さんに挨拶すると、直ぐに知客さんが出てこられ、私は典座寮、K君は隠侍寮、N君は殿司寮へ、それぞれ手伝い要員として配属された。臘八大接心中の留護は各一名と決まっており、各寮舎は人手不足で大忙しなので、丁度見習いにはうってつけなのである。

典座の留護は英さんという人で、私の仕事はというと専ら後片づけであった。そこで大きなハソリや飯器、汁器など次々に洗った。また臘八中の漬け物は特別に白菜が出され、その分量も並ではない。暇を見ては葉っぱの根本まで入り込んだ糠を丁寧に落とし、綺麗に揃えて切っては大きな寒天流しに並べた。英さんは忙しい仕事の合間に、「どうじゃ、上手に切っとるかな。」そう言っては覗き込んで、「綺麗に並べたな〜!」と感嘆の声。どんなもんだいと、思わずほくそ笑む。典座寮だけは寮舎に炉が切ってあり、竃の焚き落としをこんもり盛り上がる程入れて、冷え切った手足をしばし温めることができた。私は夕方四時になると禅堂に詰めて、雲水と一緒に十二時まで坐った。こんな調子で二,三日過ぎた頃、知客さんが来て、「今日の八つ喚から参禅をしなさい。」と言われた。作法もまるで分からない三人が参禅室に連れて行かれ実地訓練、何とか合格となり、いよいよ参禅デビューである。
初めて入った参禅室は一種異様な雰囲気で、老師が正面の床の間を背にじっと半眼のまま坐禅をしておられた。それだけでもう気も動転するばかりだったが、何とか教えられた通りの作法を終え、
見解を呈した。「如意棒」蚊の鳴くような声、「なに!もっとはっきり言え!」今度は思いっきり大声で、「如意棒!」と怒鳴るように言うと、その声が終わるか終わらないうちに、「バカ〜!」。障子がビリビリ震えるほどの大喝一声。続いて、「室内を冒涜するな!」びっくり仰天。何が何だか訳が分からないうちに第一回目の参禅が終わった。兎も角酷く不始末をやらかして、思いっ切り叱られたと言うことだけは解った。がっくり肩を落として、とぼとぼ寮舎に戻ると、その余りにも情けない顔を見て英さんが、「どうだった?」と聞いた。「もう二度と来るな!と言われました。」と答えると、「清田君、参禅は一回打てば必ず一歩進むものだ。どんな見解でも良いんだ。行かなけりゃ〜駄目だぞ!」と慰めるように説いて聞かせてくれた。彼はその頃まだ僧堂は一年半ほどの、駆け出しの雲水だったのだが、こういう事が言えるのは、今にして思えば本当に凄いことだ。
英さんはその後どういう事情か知らないが、結局還俗してしまったと聞いた。縁が無かったと言えばそれまでだが、小さいときに相次いで両親を亡くし、妹と共に地元の寺に預けられ、爾来ずっと小僧生活だったのである。余程深慮の結論であろうから、私などがとやかく言えることではない。今頃きっとどこかで幸せに暮らしていると思う。さて惨憺たる参禅で始まった私の修行だが、お陰で途中挫折することもなく、二十年間続ける事が出来た。そして今、私が雲水を指導し参禅を聞く側になり、ふと、このときの梶浦老師を思い出すことがある。あの大喝一声の「バカ!」はこれから始まる困難な修行への激励の一句であり、渾身よりほとばしり出た親しみの一句だったのである。しかしこれが解ったのは自分が雲水の参禅を聞く立場になった、三十数年も経ってからなのである。

禅僧を冷たい人間だという人がある。相手がどんなに困り果て苦しんでいても、少しも優しい手を差し伸べては呉れないし、救おうともしない。宗教家というのは人を救ってゆくのが仕事でしょう、と非難される。つまり世俗的情が無いと言うのだが、同情は最大の侮辱、これが禅だ。他人から同情されるように成ったらお仕舞いではないか。天は自ら助くる者を助く、安っぽい情は人を駄目にするだけである。だから私は雲水にも尼僧にも、「バカ!タワケ!間抜け!」と、参禅に来るたびに叫び続けている。これで這い上がれないような奴は、禅僧になる資格はない。罵声の中に含蓄のある意味を感得できないような者は、真の修行者とは言えないのだ。

 

 

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