さて昔、僧堂に典型的酒乱の先輩がいた。今まで何度もそのためにしくじり、あっちこっちを転々としていた。その時も托鉢に出かけ、点心場でたまたまお酒が供され、それを飲んだのがいけなかった。たちまち豹変大暴れ、ついにパトカーまで出動、警察に保護されるという不始末をやらかした。それが原因で僧堂を下山しなければならない羽目になり、結局自坊に返されてしまった。そんな訳でこの先輩には余り良い印象がなかったのだが、何年かしたある時、老師のお伴で黄檗山へ行った。山内の或る和尚さんと老師は昵懇の仲で、久しぶりに訪れたこともあり延々と話をされていた。その内昼時に成り、先方の和尚さんと老師は奥の座敷で、私は控えの間で食事を頂くことになった。その時、かの酒乱で乱暴者が、何と私の処へお膳を運んできたのである。不始末を起こした上の下山とはいえ一応先輩であったので、恐縮していると、まるで小僧が師匠に仕えるが如く、実に丁寧にお給仕をしてくれた。ご存じの通り黄檗の普茶料理は、一見すると鰻の蒲焼きに見えたり蒲鉾だったりと、ビックリさせられる。その調理法を一品ごとに懇切丁寧に教えてくれた。食事が済むと、境内の一郭にある、鉄眼禅師の大蔵経七千巻版木が収蔵されている所へ見学に行った。係の方に版木の中から一枚刷って貰い有り難く頂いてきた。そんな時この先輩は、下駄の音をカラコロさせ、走って先回りしては案内してくれた。嘗てあんな不始末をした雲水とは思えないお世話振りに、老師も思わず顔を綻ばせて居られた。 時は流れ,老師も亡くなり、彼も自坊の住職となり、ぶっつり音信は途絶えてしまった。そんなある時、彼が電話を掛けてきた。三十数年ぶりでも声の調子は昔と変わらず、直ぐに彼と解った。私が師家となって瑞龍僧堂に居ることを大変喜んでくれた。その電話がきっかけとなり、季節ごとに土地の産物や境内でとれた栗、蜂蜜、有名な焼酎などをしばしば送って来て呉れるようになった。今は寺でどのような生活をしているのかなど、まるで解らなかったが、不思議な交流がしばらく続いた。何年か経ったある日、突然奥さんから手紙が届き、彼が死んだことを知った。ああいう人だったからご家族もさぞ辛い思いの日々を過ごされたに違いないと察し、死んで喜ぶというのも変だが、安堵の胸を撫で下ろしているのではないだろうかと思った。それから間もなく、奥さんから住職の追憶記を本にしたいので是非文章を寄せて欲しいとお願いされた。故人の追憶文でもあり、余り苦い想い出は書かずに、懐かしいことばかりを書いて送った。そんなことも忘れかけていたある日、立派な本になった追憶の記が送られてきた。それを読み進むうちに、私は想像と全く違う彼の別の存在を知った。はしがきは娘さんが、あとがきを奥さんが書いているのだが、二人とも彼を父親として、また一家の主として深く慕っている様子がひしひしと伝わってくる心温まる文章であった。また寄せられた想い出の記にしても、決してお追従で書かれたものではなく、彼がいかに多くの人たちから慕われ、その生涯が人々の期待に充分応えたものであったことを知った。私の中にあった彼への、今までの固定観念がガラガラと音を立てて崩れ落ちてゆくのを感じた。
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