話は変わるが、毎月三泊四日で、天衣寺尼衆僧堂を会場に女性禅学林が開催され、開単以来延べ三百人以上の方々が受講されている。私は期間中二回講座を担当し、無門関の提唱をしている。その中の二十三則「不思善悪」のところでこういう話しが出てきた。達磨さんから六代目の祖師、慧能禅師がまだ出家される以前、広州の田舎で暮らしていた頃のことである。薪を街に出掛けては売り、そのわずかな稼ぎで母親を養っておられた。薪売りの途中、家の中よりお経が聞こえてきた。「…応無所住而生其心(まさに住するところ無くして其の心を生ず)…、」。心はどこにも住するところ無く、何もないのに、その時々自由に働いて出る。この一節を聞き大悟したと言われている。「ただいまの有り難いお経はどこで授けて頂けるのでしょうか。」と尋ねると、それは北の方、揚子江近く黄梅山弘忍禅師と申す偉い方が居られ、そこへ行けば教えて貰えると知った。一度お目に掛かり教えを請いたいと願ったものの、母一人子一人の身の上では、母を養う方法が他になく、進退窮まった。その時、村の篤志家が現れ、それなら儂がお母さんの面倒を見るから行ってこいと、十両を恵んでくれ、それを母親の生活費とし、慧能は黄梅山を目指して三十日余り歩き続け、弘忍禅師の所へたどり着いた。話しはまだまだ続くのだが、此処で思うのは、常識的に考えれば、慧能の願いは叶えられず、一生薪売りのままで終わってしまうであろう。ところがそんな時、篤志家が忽然として現れ、出家の援助をしてくれる。そんな旨い話はあるはずがない。しかし慧能の志が周囲の人を動かし、ついに出家の願いが叶ったのである。後、弘忍禅師の法を継ぎ、慧能は六代目の祖師と成られたのである。
話は再び変わるが、専門道場へ入門するときには、誰でも大なり小なり志を立てて来る。しかし実際に道場へ入門してみると、外から見ていたのとは大違い、二,三年もすると大抵は、「修行そのものは特別辛いことはないのですが、嫌な先輩がおりまして、ちくちくいじめられ、精神的に耐えられなくなりましたので辞めます。」と言う。僧堂は閉鎖された社会で、しかも二十四時間同じ顔を突き合わせているから、他に逃げ場がない。しかし多くの場合、これらは辞めて行く自分を正当化するための自己弁護に過ぎない。もしそれが本当の志なら、決して挫折することはない。慧能の志が実現したように、ひとたび志を立てるということは、つまり志が成ることだからである。いかなる困難にぶち当たろうが、どんなに大きな壁が立ちふさがろうが、何としても必ずやり抜いて成就させねばならないのだ。師匠はいつも、「やれるかやれないかではない、やるかやらないかだ!」と繰り返し言っておられた。 |