人は高齢になればなるほど、いままでの知識や考え方が忘れられず、いつまでも引きずって、過去にとらわれる。これは不味い。こうなると新しいことになかなか挑戦出来なくなるからだ。知識というのはあまり詰め込み過ぎると独創性がなくなる。現在ではコンピューターの普及で、以前とは比較できないほど情報が多くなった。しかし物を食べすぎると消化不良を起こすように、栄養過多、知的メタボリックとなってしまう。だから先ずは、頭の中を綺麗に整理整頓する必要がある。そのためには一端余分な物を外に出してしまわなければならない。不要な知識は忘れてしまうことである。そうしなければ新しい知識の入り込む余地はない。昔師匠がいつも、「一升桝の中がガラクタで一杯になっていたら、幾ら良い物を入れてやろうと思っても皆こぼれてしまう。先ずは枡をひっくり返して中を空っぽにすることだ。」と言っていた。そうでなければ新しい発想も生まれないのである。そこで「忘却力」が問われることになる。物知りは大体物を考える力が乏しい。内田百閧ヘ、「なんでも知っているバカがいる」と言っている。知的メタボリックにならないためにはまず忘れることで、知識をどんどん排泄しなければならないのだ。ところが人はみな子供の頃から「忘れる」ことに恐怖心を抱いている。何でも良く覚えよ、忘れてはいけないと言われ続け、テストでチェックされ、知らぬ間に我々は忘却恐怖症に取り憑かれてしまっているのだ。学校教育は人間の頭を倉庫のように見立て、知識をどんどん蓄積させる。だからそのための倉庫は大きければ大きいほど良いわけで、つまり頭の優秀さは記憶力の優秀さとなる。その結果空いたスペースはほとんど無く、物知りのバカが出来上がる。ものを考えるためには頭の倉庫ではなく、工場にする必要があるのに、稼働するスペースがないのだ。能率よく仕事をするためには邪魔になる物を取り除き、必要な材料を素早く取り出せるようにする。つまり倉庫の役目はコンピューターに任せ、人間の頭は、知的工場にするのが最良である。
頭がいっぱいだと知識欲もわいてこない。忘却が進んで頭の中がスッキリすれば、何か新しい物を取り込もうという意欲も高まってくるはずだ。どんどん忘れることは、頭の中が綺麗になって良いことだと考え直す方が良い。これまでは加齢にともなって自然な忘却力に頼っていればそれで済んだが、これからの時代は人為的に忘れる努力をしなければならなくなってくるだろう。それは何故かというと、人生八十年時代になったからである。平均寿命が六十歳そこそこのときには、いわば一毛作人生で良かったが、寿命が延びて人生八十歳時代になってくると、二毛作を考えなければならなくなった。周りを見渡しても、人生の前半で輝かしく活動していた人が、後半惨めになっていると言うことが少なくない。若死にすればそう言った期間は短くて済むが、人生後半が十五年二十年ともなると、過去にすがって生きる浪費でしかなくなる。
一般的に月給を貰っている人の生活はいわばエスカレーターに乗っているようなもので、じっと立ったままでも自然に全体が上がって行くので、徐々に偉くなったような錯覚を起こす。しかしそれは間違いで、ただ立っているに過ぎず、悪いことに自分の足を使わないので、次第に足腰が弱ってくる。本人はそのことに気が付かない。問題はそのエスカレーターが切れたときで、定年になって会社を放っぽり出され、その時初めて、この先どうしたら良いのか茫然自失となる。 |