さて、幸福についても同様なことが言える。以前義理の兄から戦後食糧難時代に、裏山を開墾し畑を造成し、芋や野菜を作って飢えを凌いだ苦労話を聞いたことがある。最近当時のことを記録した自前の小冊子を作った。一部を引用させていただく。「…まだ小学校を出るかでない頃だったので、いつも正ちゃんを誘って山の開墾を始めた。学校から帰ると鍬を担ぎ土の堆積した部分から始めた。大した草もなく二,三日で五メート四角の畑が出来上がった。浅いところには他の土を削ってもっこで盛り土をした。畑ができ次第種をまく。ほうれん草とエンドウ豆を四柵ずつ蒔き、また東端崖下に堆積したところに四メートル四角の畑も作り、砂地には玉葱が良いと聞いていたので、苗を植え付けた。畑の拡張はその後も続けたが、開墾と言うより客土の運搬が主で、スピードはがっくり落ちた。その内相棒の正ちゃんはこなくなったので、もっこ担ぎの相手が居なくなり、仕方なく一人で運搬を始めた。地中を走る木の根、竹の根は凄まじいもので鍬を振るっても歯が立たず、特に一抱えもあるクヌギの古株の除去には一週間も十日もかかり、除いた後には径三メートル、深さ一メートル位の大穴ができ、転がった根株を動かすだけでも大変な仕事であった。それは並大抵のことではなく、「やるぞ!」という執念で立ち向かった。やがて蒔いたほうれん草やエンドウはぐいぐいと成長し、今まで見たこともないような立派な出来栄え、わくわくしながら収穫した。こんな調子で一年半から二年もすると、二十平方メートルの畑が三枚出来、大農場が完成した。この時完成した畑は頼みの綱となり、主食は賄いきれなかったが、野菜は殆どここで賄い、特に芋類の収穫はまことに有り難かった。この畑は苦難の時代を乗り切るために貴重な存在となり、新鮮な野菜を供給してくれると共に、作る楽しみと喜びを与えてくれた。この時の経験がその後の園芸や花作りの楽しみへと繋がっていった。当時十二,三歳でよくもこんな事を一人で数年間も続けたものだと我ながら感心する。この一連の開墾で外に出て体を使うことと、苦難に耐えることが身に付いた。これは長い人生で随分得をしたと思っている。この畑はそれから五十年以上も弟が家庭菜園として引き継ぎ、今でも耕作を続けている。」と、まだ文章は続くのだが、その思い出は、決して惨めで不幸せなものではない。兎も角必死に食物を確保しなくてはという思いで努力し、懸命になっていた時代に育った有り難さを感じているのである。現在ではスーパーへ行きさえすれば溢れんばかりに食物が積み上げられ、文字通り飽食の時代だが、今これを本当に幸せと感じている人がどれだけいるだろうか。私も戦前の生まれで、小さい頃の想い出と言ったらいつも腹を空かせ、味噌を塗ったおにぎりと、きゅうりやトマトを一緒にがつがつ食べた記憶がある。お米の飯が食べられるのは一日に一度だけ、後は近所の畑を借りて芋を作り、毎日芋ばかり食べていた。では今その時代を振り返って、不幸のどん底だったかと言えば、そんなことはない。
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