さてこの慧能禅師だが、今から千三百七十四年前、広東省広州市から車でおよそ六時間のところ、南海新州に生まれた。現在でも周囲は田畑が広がる寒村である。生誕地に国恩寺が建てられ、六層の塔が聳えている。我々が訪れたとき、六重の塔の立て直しが進められ、直ぐ横に新たに建設中であった。もとの塔は綺麗に片付けられ、つい最近その土台部分を掘り起こしたところ、舎利が納められた黄金の壺が出てきたという。他にも何点か出土し、それらを展示するコーナーが特別に設けられていた。
禅師の生い立ちだが、若くして父と死別し、病弱な母を薪を集めては売って、細々と生活していた。禅師二十四歳の折り、薪を売っているとき、「応無所住而生其心、まさに住するところがなくてもその心を生ず」と言うのを聞き、大変興味を持った。「何処で教えてもらったのですか」と男に問うと、「黄梅山の五祖弘忍禅師のところです」と答えた。そう聞いて矢も楯もたまらず直ぐにでも弘忍禅師にお目に掛かりたいと思ったのだが、病弱な母を残すわけにも行かぬ。困り果てたとき、男が銀十両の提供を申し出たので、それを母の養生費とし、黄梅山を目指した。南の広東から何百里、黄梅山まで三十日余りの後、五祖大師に見えることができた。広東は僻地、言葉も風俗習慣も皆違う。中央から見れば大変野蛮なところである。五祖は問う「どこから来たか」慧能は答えた。「南方より来ました」「何をしに来た」「仏になろうと思います」。すると五祖は「お前のような南方の山猿が仏になんぞなれるかい」。慧能は「人に南北有りと雖も、仏性何ぞ南北有らん」と言った。こいつなかなか味なことを言いよるわい、と言うわけで、米搗き部屋に入れられることになった。体格が貧弱なために、腰に大きな石を括り付け杵を踏んだ。そうして八ケ月、ある時、外で小僧が何やら妙な詩を口ずさんでいる。それは何だと問うと、弘忍老師はいよいよ隠居なさる。そこで雲水全員に悟りの境地を詩に託すようにと命ぜられた。中で筆頭格の神秀禅士は次のような詩を作り、書きだして壁に貼った。「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、時々に勤めて払拭して、塵挨を惹かしむること勿れ」。これは大変良い詩だから、皆良く覚えて修行しろと言われたので、毎日口ずさんでいるのだと言うのである。慧能は、「だいぶ旨いこと歌っているが、まだあかん、詩の書いてあるところへ連れて行ってくれ。わしは字を知らんからその横に書いてくれ」と言った。その詩は「菩提本樹無し、明鏡亦台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵挨を惹かん」。この詩を五祖弘忍禅師がご覧になり、夜中隠寮に慧能を呼んだ。弘忍禅師は慧能が大悟徹底、本当の悟りが開けたと確信し、釈尊伝来の袈裟と鉄鉢を渡し、二十年経って時が来たら、大法挙陽せよと、密かに船に自ら乗せて対岸に逃した。
そのことがあって以来三日間、弘忍老師は提唱しないので、皆が怪しんだ。すると老師は「もう大法は譲って南方へ去った」と言った。さあ、黄梅山七百の雲水は大騒ぎになった。あんな米搗きに法を持って行かれてなるものか、取り返せとばかり、慧能の後を追いかけた。中でも元軍人で四品将軍と綽名された明上座は、江西省から広東省へ出る間にある峠、大庾嶺で追いついた。慧能は明上座を見て、譲り受けた鉄鉢と袈裟を石上に擲って、「この袈裟は仏法に対する信念を象徴しておるものだ。力ずくで争うものではない。持って行けるものなら持って行け!」と言った。明上座は力任せに袈裟を持ち去ろうとしたが、山の如く動かず、途端にぞ~と冷や汗が出てきて立ちすくんでしまった。
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