半分こ
 
 幸せはこんなものかなかき氷、と言う句がある。この句の下の句「かき氷」をいろいろ変えて言葉を置くと面白い。「ひざ枕」なんてちょっと色っぽいし、「腕枕」の無聊を託つ雰囲気も捨て難い。あるラジオ曲が川柳番組で「しあわせの五・七・五」がおなじ趣向で呼びかけたところ、人それぞれの幸福感を反映した句が殺到したそうだ。下の句をアトランダムに列記してみる。
半分こ・しまい風呂・子の笑顔・普通の子・家で酌・二度寝入り・朝寝坊・寝息聞く・握り飯・つまみ食い・鍋つつく・孫の顔・朝のお茶・ひざの猫・五円引き・黄身二つ・変わりなし、因みに私なら、ハチ撫でるである。
これらの中から、私が選者として一番を選ぶとしたら、「半分こ」である。

私が小さかった頃、日本はまだ敗戦の痛手から立ち直っておらず、兎も角食い物がなかった。特に甘いものは極端に不足していて、子供にとってこれくらい辛いことはない。今どきは饅頭や羊羹、ケーキなどでも、甘くないのが喜ばれるが、当時旨いと言うことは甘いと言うことだった。田舎では葬式に、必ず大判型、大人の手の平ほどもあろうかという葬式饅頭が引き物になった。だから父が葬式に出掛けるときは、帰ってくるのが本当に待ち遠しかった。人の不幸を喜ぶというのも何だが、今日はお葬式があるという日は、学校が終わると道草は食わず、一目散に家に飛んで帰った。兄弟四人、首を長くして父を待つと、やがてにこにこしながら帰ってきた。早速大きな葬式饅頭を取り出し、俎板の上で均等に四つに切り分ける。姉や兄と顔を見合わせながら食べた饅頭は、一人で食べるよりずっと美味しかったことを覚えている。
戦後物の無かった時代に育った者なら、この話に似たような体験を持って居る人は屹度沢山いるだろう。食べ物の話しばかりで気が引けるが、父は子煩悩な人だったから、いろいろ工夫して我々に少しでも美味しい物を考えてくれた。当時昼は代用食で、殆ど芋だけだった。それもふかし芋ばかりでは美味しくないと、泥と藁を混ぜ水で練って、簡単な竈を作り、平べったいハソリを置いて、厚さ二センチ位にスライスした薩摩芋を並べて焼くと、これが珍味で、香ばしい焼き芋が出来た。父と手を泥だらけにして作った竈で焼いた薩摩芋を兄弟で分け合って食べた頃を懐かしく想い出す。
友達と子供の頃の思い出話を良くするが、分け合って食べると何故美味しいのだろうか。つまりこういう事ではないかと思う。嬉しい楽しいも、一人より二人、二人より三人と、みんなと一緒の方が大きくなる。それと同じで、二人で半分こすると、「おいしいなあ、おいしいなあ」と言い合って食べるから、美味しいが倍になるのではないだろうか。ふっと、今の自分の境遇を思った。私には分け合って食べる相手が居ないのだ。お寺だから勿体ないくらい沢山頂き物をする。大半は雲水達の茶礼になるが、少しは私も頂く。しかしどんなに贅沢なお菓子や果物でも、本当に美味しいと心から嬉しくなって食べたことはない。物の味は単に分量や豪華だというのではなく、心の働きで増すものなのではないだろうか。夏の終わり、いつも境内植え込みの剪定に植木職人が何人も入る。午前午後と一回ずつお茶とお菓子をだす。木陰で車座になって一休みすると、ハチはいつも職人さん達の仲間になって、ちょこんと座って、お煎餅を食い入るような目で見ている。すると必ず煎餅の欠片を貰って食べる。職人さんの一人が、「自分だけで食べるより、ハチが尻尾を振りながら食べるのを見る方が美味しいね。」と言った。これも半分この美味しさである。

話しが少々飛躍するが、格差社会と言うことが言われ、国内の問題に止まらず、世界的な問題で、貧富の差は益々広がるばかりである。富める国は益々富み、貧しい国は一向に浮かばれない。過日、旅行でアフリカへ行ったが、ほんの一端を垣間見ただけでも、今尚貧しさの中で喘いでいる国の何と多いことか。それはその国の問題だと言ってしまえばそれまでだが、「あなたが幸せにならなかったら私の幸せもないのです」と考えたらどうだろうか。半分この、分け合って得る幸福感を、世界的規模にまで拡大しなければ、同時に平和ももたらされないのではないかと思うのである。
近年派遣労働の過酷な扱いが言われている。用が無くなればぽいっと捨てられ、明日からは住む家も食べる物さえ事欠くと言う。これも個人の責任でしょうと言ってしまえばそれまでだが、社会全体のことと考えれば、放っては置けない。みんなと共に分け合って得る幸せ感が乏しくなったのだと見たらどうだろうか。それは心の貧しさと言うことに成りはしないか。「物で栄えて心で滅ぶ」と言うが、戦後まだ日本全体が貧しかった頃の方が、今よりこころは豊かだったような気がする。外見的には華やかな衣裳で着飾り、贅沢な食事をし、快適な住まいで暮らしていても、心が貧乏では何も成らない。この豊かな国で、毎年三万人以上の自殺者が出るというのも、心の貧困という側面があると思う。私は最初に半分この幸せを言った。人の喜びを我が喜びとする。これが心の本来の姿なのだと思うからである。独り占めして丸ごとケーキを食べたいという欲望の奥にある澄んだ心を、もう一度思い起こして欲しいと思うのである。

 

 

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