この経験は私も小学生の頃にあった。学校の帰り道、枝にぶら下がっていたさなぎを捕ってきてボール箱の中に入れ、毎朝学校へ行く前に蓋を開けては様子を見ていた。ある朝、今日も変化はないのかな~と無造作に蓋を開けたら、いきなり大きなアゲハチョウが飛び去ったのを見て、ビックリしたことがある。あんな不格好なサナギから、どうしてこんなに綺麗な蝶が出てくるのかと、不思議に感じたものである。さて、幼虫たちは食べ物に関しては驚く程好みが狭い。アゲハチョウなら、ミカンかサンショウの葉しか食べないし、近縁種のキアゲハならパセリかニンジンの葉しか食べない。どんな植物にも栄養素としての組成に大差はないはずなのに、自分の食性以外の葉には見向きもしないのだ。
福岡氏は後年分子生物学者になり、虫取りを卒業して、遺伝子ハンターとなった。細胞の森に分け入ると、未知の遺伝子が幾らでも潜んでいた。その中からGP2と名付けた遺伝子を見つけた。この遺伝子の役割を調べるため、遺伝子操作によってゲノムからGP2の情報を切り取る。すると実験用マウスはGP2を作り出すことが出来ない。マウスは重大な病気になるはずである。それがGP2の機能を証明することになる。遺伝子のノックアウトマウスである。ところがマウスは遺伝子がひとつ完全に欠落しているのに、全く健康であった。ある要素がなければ、残りの要素が協調し、補完しあって、全体として恒常性を保とうとする。つまり動的平衡である。
さきほども書いた通り、昆虫はかたくなまでに自らの食べるべきものを限定している。棲む場所も、活動する時間帯も、交信する周波数も、自分たちが排泄したものの行方さえも知っている。また誰にどのように食われるかと言うことも。なぜか。それは限りある資源をめぐって異なる種同士が無益な争いを避けるために、生態系が長い時間をかけて作り出した動的平衡なのである。その流れを作っているのはほかならぬ個々の生命体の活動そのものだから、確実にバトンを受け、確実にバトンを手渡す。黙々とそれを繰り返しているのである。これを生物学用語で「ニッチ」と呼ぶ。ニッチとは、全ての生物が守っている自分のためのわずかな窪み、すなわち生物学的地位のことである。その窪みは同時に、バトンタッチの場所でもあり、流れの結節点となって、物質とエネルギーと情報の循環、つまり生態系全体の動的平衡を担保しているのである。
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