分際
 
 これから先十年、自然や環境、あるいは生命の問題はどう成るのだろうか。地球温暖化が危惧され、九十年代比で二十五パーセント削減が提案されている。しかしある部分だけを取り出して環境を急激に変化させることは、かえって全体のバランスを崩す畏れがあるのではないだろうか。自然のあり方や環境の状態のどこかを変更することなど、我々には出来ないことである。なぜなら自然は絶え間なく無目的に変化し、目的や方向性はないからである。あるのは動的な循環とバランス、つまり平衡があるだけだ。これらは昆虫を観察することで学ぶことが出来る。これから申し上げることは、分子生物学者の福岡伸一氏の話しである。彼は子供の頃、地面に這いつくばったり、野原をかけずり回って虫を集め標本にしていた。小学校に上がる頃は、家中に虫を飼う箱が並んだ。親は内心嫌がっていただろうが、不思議なことに何も言われなかったそうだ。飼育したのはアゲハチョウ類の幼虫で、幼虫は食欲旺盛で育つほどに食べる。幼虫がさなぎを経て蝶になることほど劇的なことはない。

この経験は私も小学生の頃にあった。学校の帰り道、枝にぶら下がっていたさなぎを捕ってきてボール箱の中に入れ、毎朝学校へ行く前に蓋を開けては様子を見ていた。ある朝、今日も変化はないのかな~と無造作に蓋を開けたら、いきなり大きなアゲハチョウが飛び去ったのを見て、ビックリしたことがある。あんな不格好なサナギから、どうしてこんなに綺麗な蝶が出てくるのかと、不思議に感じたものである。さて、幼虫たちは食べ物に関しては驚く程好みが狭い。アゲハチョウなら、ミカンかサンショウの葉しか食べないし、近縁種のキアゲハならパセリかニンジンの葉しか食べない。どんな植物にも栄養素としての組成に大差はないはずなのに、自分の食性以外の葉には見向きもしないのだ。
 福岡氏は後年分子生物学者になり、虫取りを卒業して、遺伝子ハンターとなった。細胞の森に分け入ると、未知の遺伝子が幾らでも潜んでいた。その中からGP2と名付けた遺伝子を見つけた。この遺伝子の役割を調べるため、遺伝子操作によってゲノムからGP2の情報を切り取る。すると実験用マウスはGP2を作り出すことが出来ない。マウスは重大な病気になるはずである。それがGP2の機能を証明することになる。遺伝子のノックアウトマウスである。ところがマウスは遺伝子がひとつ完全に欠落しているのに、全く健康であった。ある要素がなければ、残りの要素が協調し、補完しあって、全体として恒常性を保とうとする。つまり動的平衡である。
さきほども書いた通り、昆虫はかたくなまでに自らの食べるべきものを限定している。棲む場所も、活動する時間帯も、交信する周波数も、自分たちが排泄したものの行方さえも知っている。また誰にどのように食われるかと言うことも。なぜか。それは限りある資源をめぐって異なる種同士が無益な争いを避けるために、生態系が長い時間をかけて作り出した動的平衡なのである。その流れを作っているのはほかならぬ個々の生命体の活動そのものだから、確実にバトンを受け、確実にバトンを手渡す。黙々とそれを繰り返しているのである。これを生物学用語で「ニッチ」と呼ぶ。ニッチとは、全ての生物が守っている自分のためのわずかな窪み、すなわち生物学的地位のことである。その窪みは同時に、バトンタッチの場所でもあり、流れの結節点となって、物質とエネルギーと情報の循環、つまり生態系全体の動的平衡を担保しているのである。

 ここで今、ニッチを「分際」と訳してみよう。全ての生物は本能の最も高度な現れ方として、自らの分際を守っている。ただヒトだけが、自然を分断し、或いは見下ろすことによって分際を忘れ、分際を逸脱している。我々人間だけが他の生物のニッチに土足で上がり込み、連鎖と平衡を攪乱している。ヒトは何が分際であるかを忘れ去っている。しかし他の生物のありようを見れば、分際とは何かがわかる。自らが棲む風土との間に、長い時間を経て生み出されたバランスのことである。例えば江戸時代、我々はずっと風土に根ざして暮らしていた。旬のものを食べ、地産地消を考え、薬物や添加物など、自らの平衡を乱すものを避け、時間の経過にあらがわない。足りているものはそれ以上取らない。しかし現在我々は何をしてきたか。草食動物に肉食を強要したあげく狂牛病を蔓延させ、集約的畜産から新型ウイルスを生み出し、抗生物質の多用によって、耐性菌を作った。それでも自然界の動的平衡は何とか持ちこたえてきたが、しかしそれは万能ではない。最近GP2の意外な役割が判明した。GP2がないと細菌感染しやすくなるのだ。この発見は、動的平衡がしなやかで可変的である一方、極めて脆弱なものであるということである。一度乱した平衡を回復するには、膨大な時間がかかるのである。
自分の分際を知ると言うことは、「足る」を知ることである。人間の欲望は尽きることがない。これで良いと満足することはないのだ。今我々に最も必要なのは数値目標ではなく、生命感そのもの、我々自身のものの見方心のありかたを大転換することではないだろうか。小さな昆虫を見つめると、生命の真理を垣間見ることが出来るのである。
分際とは、そのものに応じた程度とか、身のほどと言う意味である。日本永代蔵に、「人は堅固にて、その分際相応に世をわたるは、大福長者になほまさりぬ」とか、「学生の分際でなまいきだ」等という風に使われる。  

 

 

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