老人が惨めだと思われる理由について、ローマ時代のカトーは四つ上げている。先ず第一は公の場から遠ざけられる事。次ぎに肉体の衰弱、またすべての楽しみを奪われ、死が間近にせまって来るからだと言っている。老いると定年や引退がすぐ頭をかすめるが、無謀な若い盛りの者にはない、思慮・見識、老年の自負とバランス感覚など、老いてこそ得られる貴重な知力があることを忘れては成らない。また体力の衰えについてだが、作今の過剰な健康ブーム、高齢者の体力維持願望などは、果たしてこれで良いのかと思う。年齢に応じて「在るものを使う」と言う姿勢を貫いたらいいのではないか。畏れなければならないのは、肉体の衰えではなく精神の怠惰である。つまり年齢を言い訳にせず、病に立ち向かうが如く老いと戦わねばならぬ。まさに老年とは精神の戦場なのである。肉体は鍛錬して疲れが昂じて重くなるが、心は鍛えるほど軽くなるのだ。また三番目の快楽から見放されるだが、研究や学問という糧があれば暇に恵まれた老年ほど喜ばしいことはない。若い頃の欲望や政治的駆け引きなどから離れて、老後の自然との対話が如何に悦びを与えてくれるか知れない。次ぎに四番目の死の接近についてだが、若者の死は無理矢理に木からもぎ取られ、力ずくで奪われる感じだが、老年に到れば成熟の果てに熟れた実が自分から落ちるように自然である。死は長い航海を終え港に入るに似ている。まさに自然の摂理であり、自分は存分に豊かに生きてきたとの強い自覚と自負が窺える。だからよく生きなかった者に良き死は望めないのである。 さて随筆家幸田文の「季節の楽しみ」と題された一文は老いの一つのかたちを表現している。季節との関わりの中にふと老いの姿を浮かび上がらせ、老いの培ってきた感性が自然に表れる。洗濯の乾き具合で春の到来を知り、ゆかたの色で、秋の前触れを知る。浮き世の重荷を正面から受け止め、生き続けた結果、重荷は殆ど片付き、老いた自分がそこに居る。無闇に長生きしたいとか、その為の努力を惜しまずしたとか、そういった命の剥き出しになった老いとは違い、より自然な、より慎ましやかな、季節の訪れのように、生の充足によって老いが産み落とされるのである。生の伴走者として、高い空を飛ぶうちにいつか死の国境線など知らぬ間に越えてしまっている。幸田文が見出した老いとは、季節に対する深い関わりの中から生まれたのである。今日、生活の中から季節感は失われたとよく言われる。しかしこのような細部を見ようともしない雑駁な見方ではなく、たとえ衣食住に季節感は失われてきたとしても、その時々に、雨を降らせ風を吹き寄せ、ひとしずくの葉に宿る露にも、季節は確実に感じられるのだ。それは断固として潔く清々しく、安っぽい環境論などにもたれかかっていない。季節は先へ先へと変わって行き、新しいものへと姿を変える。季節に老いはない。季節と共に生きていれば自分も前向きになってくる。体が老いれば心も屈して万事に消極的になり勝ちだが、季節に引っ張られていれば、過去に沈没せず生きられるのだ。これは四季の変化に恵まれた国でなければ生まれ難い、日本人らしい老いの接し方である。
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