「お~冷たいな~」、と父は言いながら、自らの体で小さかった私を温めてくれた。その父も三十数年前に死んでしまったが、当時のことが涙が出るほど懐かしく、愛されて育てられたのだと今更ながら思う。これは単に暖を取ると言うことではなく、むしろ親の愛情を感ずる方が大きく心に残るのである。
さて現代はどうかと言えば、そんな貧しさはとっくに終わって、子供も一人部屋を与えられ、エヤコンの効いた快適なスペースで、電気毛布にくるまってぽかぽかでやすむことが出来る。こんな良いことはないが、しかし私が父に抱かれて温めて貰ったような心は残らない。つまり貧しく、何もない時代だったから親子が寄り添って寒さを凌ぎ、強い絆になっていったのである。六十数年経った今でも当時のことが鮮やかによみがえり、万事不如意だったが却ってそれが良かったのだと思うのである。とろで今時は真冬でも薄着で、特に若い娘さんなどは、殆ど季節など関係ないような格好をしている。外は寒いが、一端建物の中に入ってしまえば、何処も暖房が効いていて常春で、大体厚着では格好悪くて歩けたものではない。これは娘さんばかりではなく、同じ年の友人なども、真冬に肌着は半袖、ワイシャツに背広で全然寒く無いという。やせ我慢でしょうと言ったら笑われてしまった。それに比べて私はといえば、真冬は平均七枚重ね、もう少しで十二単だと言って厚着自慢をしている。暖房のない僧堂ではこれくらい着込まないと、とてもじゃないが寒くて堪らない。話が横道にそれたが、それたついでに、修行時代のことを申し上げると、雲水は寒いからと言って勝手に厚着することは許されなかった。肌着で少し調節するくらいで、後は着物も生地の種類まで限定され、ましてや綿入れのでんちなど着込もうものなら、張り倒された。禅堂で警策を受けるとき音で直ぐばれてしまうのだ。綿入れは蒲団叩きをしているような音がするから、この馬鹿野郎!てなことで、強制的に引っぺがされた上にめった打ちの目に遭う。一方素足も大変寒いもので、冷え切った板の間は寒気が脳天まで突き抜けるようだった。更に木枯らしが直接足に当たるから、バリバリにあかぎれとなり、歩くたびに廊下に血が滴り落ちる。せめて足袋を履かせて貰えれば有り難いのだがな~と思ったものだ。勿論老師以外は素足と決まっていて、白足袋を履けるのは本堂行事で真威儀出頭の時に限られ、戻ればまた素足である。雲水時代に普通の人の一生分の寒さを味わい尽くしたと思っている。そこで今では、早朝の本堂での勤行が一番冷えるので、それに合わせて着込むから十二単になると言う訳なのである。厚着が自慢になるとは思わないが、修行は全て苦痛があって成り立つものだから、ぶくぶく着膨れているような雲水ではろくな修行は出来ない。腹がへって、睡眠不足、さらに寒いのが修行には一番良い薬になるのである。それから帰るところが何処にもないというのも良い。孤児だからどんな崖淵に佇んでも、背水の陣をひいて頑張れる。
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