空
 
 最近はちょっとした仏像ブームだそうで、以前、東京で「国宝阿修羅展」を開催したところ、膨大な数の人が見物に押し寄せたそうだ。仏像が好きという人は今始まった話しではなく、モデルのはなさんを始め、昔から沢山いる。私は室生寺の観音菩薩立像が好きで、時折拝顔に出掛ける。私の姉も仏像大好き人間で、秋篠寺の伎芸天はこの角度から見るのが一番美しいとか、永観堂の見返り阿弥陀がいいとか、まるで娘が人気歌手を追っかけるのと、どこか似ているような気さえする。勿論佛さんと若者人気グループを一緒にしたら叱られるかも知れないが、この様に中年過ぎのオバタリアンに、絶大な人気を得ているのが仏像というわけである。尤も安っぽいお坊さんの説教を聞くより、美しい仏像と対面した方が余程救われるのかもしれない。仏師が一刀礼拝の気持ちで精魂傾け彫り上げた仏像は魂が込められているから、長い年月を経ても尚衰えず、我々の心に訴えるものがあるのだろう。

 さて、みうらじゅんと言う人がいる。この方は美術大学を出られたのだが、エッセイスト・ミュージシャン・評論家・ラジオDJ等々、多方面に活躍されている。あるときひょんな事から仏像大好き人間になった。『そもそも小さい頃は怪獣マニヤ、周囲からもかなりアウトロー的人間に見られていたらしい。祖父のところへ習字の稽古に通うようになったとき、大量の蔵書の中から「日本の仏像」と言う本を見つけ、ぱらぱら見たりしていた。その中で土門拳さんの写真集を見つけ、奈良の戒壇院の四天王の一人,廣目天の眉間のシワだけが撮ってあったり、甲冑部分だけが二ページのどアップになっていたり、「これはなんなんだろう」と思ったのが切っ掛けとなり興味を持ち始めた。祖父は小学校の校長をしていて、とても真面目な人だったが、何でこの人がこんな異様なものが好きなんだ、自分の中ではとても謎だった。そのうち怪獣が好きな自分と祖父は似ているんじゃないかと思い始めた。習字をしながら祖父とそんな話しをしたのだが、自分が好きだった特撮のヒーロー達は、元々仏像からルーツを発していることが徐々に解ってきた。祖父の家は広隆寺の近くで、国宝第一号の弥勒菩薩を見に行こうと誘われ、見に行ってきた。半跏思惟の姿をされた仏像は、顔がとてもウルトラマンに似ている。初期のウルトラマンは、口が少し開いていて、口角が少し上がっていて、まさにアルカイックスマイルの弥勒さんのようだと思った。あの半跏思惟のポーズも、少し手を挙げると、スペシウム光線を発射するスタイルに見えた。このウルトラマンから端を発して、東寺の金堂に勢揃いしている薬師三尊、講堂の立体曼荼羅と言われる仏像群などから、空海さんが中国に渡り教典を持ってこられ、胎蔵界と金剛界の平面を立体化されたことにもの凄くビビッときた。それからというもの、毎週のようにお寺に行くようになり、パンフレットを買ってスクラップブックに貼って、そこに感想を書いた。仏像趣味が高じてスクラップブックが十二冊にもなり学校の先生に見せ、得意になって職員室で仏像彫刻の話しをする変わった子供になってしまった。憧れている人物と聞かれれば、いつも「弘法大師」と言い、北野天満宮の縁日には、古道具屋から「三鈷杵」というスプーンが三つに分かれているようなものを買い、小学校に行って弘法大師の真似をしたので、どんどん友達がいなくなった。京都に居ながらうちはどうしてお寺じゃないんだ、将来は住職になってお寺を嗣ぎたいと思った。それには仏教の学校に入らなければと思い、東山中学を志願した。学校の成績は全く駄目だったが、面接のとき校長先生の前で熱く仏像のことを語ったら、「あなたのような人を待っていました」と言われて、受かった。中学校に入ったらさぞ、仏像を熱く語れる友達が沢山居ると思っていたら、皆ぐれていて、パンチパーマをかけ、お釈迦さまと同じ頭にになっていた…』。この様な幼年期を送ったみうらじゅんさんは後年、東京の繁華街を歩いていて、至るところに「空あり」と言う看板を見つけた。一般的には「アキあり」と読むのだろうが、また「空なし」と言う看板もある。「空」とはそもそも実体がないと言うことで、さらに「ない」と書いてあったり、もの凄い仏教の神髄が至るところに書いてある。ま、言いたいのは駐車場は既に貸しているから、もうそこには「ない」なんだろうけれど、「空」と読んだら、凄いことだと思った。

 ある時、街にあるもので「般若心経」を揃えることが出来ないかと考えた。カメラ片手に、般若心経を唱えながら「無煙焼肉」で「無」、般若の若は「ちゃんこダイニング若」、と言う風にして、般若心経三百何文字を全てカメラに納め般若心経を撮り終え、これを以て自分の写経にした。一文字一文字はバラバラで、それは単なる看板なのだが、寄せ集めれば般若心経となる。そもそもバラバラなものが集まってそう見えていただけで、実体はないのだ。無門関に「兜率三關」という則があるが、地水火風の四大分離すれば、まさに「空」となる。写経は繰り返しすることによって、もう体の中に入って、消化して意味が無くなり、そもそも実体が無いと気づく。つまり「自分なくし」の旅に出ることなのである。みうらじゅんさんのユニークな見方に新鮮なものを感じた次第である。

 

 

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