情緒力
 
 私が専門道場の師家になって早や三十年が経った。九年前には、近くに尼僧の専門道場が建立され、そちらも同時に世話をするようになり、これで男女ともに修行僧の面倒を見ることになった。しかしどちらも期待した割には短期間で帰ってしまう者ばかりで残念なことである。男僧堂の方に一人十三年頑張っている者が居るので少しは救われるが、おおむね一,二年で退散してしまう。これは最初から修行に対して情熱がなく、資格さえ取れればそれで良しという、安易な考えだからである。だがよく考えてみると、長く修行する者がみな、最初から十年二十年と決めて道場に入門してきたかと言えば、そんなことはない。日々修行している間に、自然にそうなったので、どこまでも結果である。では途中挫折するか、あるいは頑張れるかの境目はどこにあるのだろうか。ここで直ぐに思いつくことは、忍耐力とか生真面目さとか、持続力とか、あるいはもっと現実的に、大手降って帰ることの出来る場所がないからとか、いろいろ理由はあるだろう。しかし修行はその程度のことで続けられるものではない。いろいろな雲水を見てきて解ったことは、長く修行を続ける者に共通してある要素は「情緒力」ではないかと考えている。

 むかし偉大な業績を挙げた数学者の岡潔さんは、昭和天皇に、「数学の研究はどうやってやるんですか」と問われて、「情緒の力で致します」と答えたエピソードがある。情緒とは「野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心だ」と、美的感受性の大切さを話したそうだ。日本人が微細な工業製品を生み出したり、五七五の極めて短い文章に深い味わいを表現する事が出来るのも、微妙に変化する四季を、日々五感を通して感じ、そう言う中で自然に育まれた情緒力ではあるまいか。あの山の頂にまだ見ぬ美しい花が咲いていると信じ、その花を見届けずにはおけないと言う情熱である。以前にもご紹介したことがあるが、柴山全慶老師の詩にこう言うのがある。「花は黙って咲き、黙って散ってゆく、そして再び枝に帰らない、けれどもその一時一処に、この世の総てを託している、一輪の花の声であり、一枝の花の真である、永遠にほろびぬ生命の歓びが、悔いなくそこに輝いている」。たった一輪の花に、これほど深く、こんなにも大きな啓示を感得するのである。
昔の教育に素読というのがある。四,五歳の時から論語や荘子や孟子など、これらの漢籍から先ず漢字を覚えた。そして内容は皆目解らなくとも、漢字に対する恐れが無くなり読書が好きになった。また詩経と言う万葉集にも匹敵する優れた詩集もあり、もののあわれ、民衆の悲哀、出征する兵の悲しみなどが多く詠まれている。孔子も、「詩を読みなさい。そうすればどんな立場に立っても、きちんとものが言えるようになる。詩を知らないと何も言えない」と弟子に奨めている。
さて話は変わるが、雲水修行の頃、先輩に大変厳しい方がいた。彼の寮舎に入った者は、しばらくすると必ず逃亡した。修行に厳しさは当然のことで、文句を言う筋合いではないが、この人には何かが欠けていると感じた。下の者が、道場を脱走し修行を挫折せざるを得なくなると言う結果は、決して良いことではない。勿論ただ無闇に甘やかしていればいいと言うわけではないが、親切な厳しさなら、真意はちゃんと通じるものだ。ふとその頃を想い出し、この先輩には情緒の力がなかったのではないかと思う。世俗の情など全く無用の修行道場だが、だからと言って、パサパサに乾涸びた感性では駄目である。
 人が物事を成就するために必要な要素として、大きく六つ挙げられる。先ずはどこまでも思いを遂げようとする大いなる願心である。次ぎに、その為に必要な知識であり、思いを実現するための飽くなき執着心である。さらに、一方ではお先真っ暗の中でも絶望しない楽観主義と、それを支える論理的思考力、高い頂にまだ見ぬ花を取りに行くための、美しさに感動する美的感受性である。世俗から遠ざかり隔絶された道場での修行にも、これらがバランス良く、一人の人間の中に納まっていないと、本当の修行は出来ないのだと思う。

修行を始めた二十代そこそこから、四十代前半に至るまでの長期間とも成ると、同じ人間でも年齢と共に考え方も当然変化してくる。だから一口に願心と言っても、内容が変わってくるのだ。いや変化しなければいけない。変化しつつ保ち続けることこそ本当の願心なのである。その対極にあるのが頑固一徹だが、これは頑なに固執するというのではなく、いわば柔軟に固執することである。この柔軟心こそ美的感受性に他ならない。道元禅師が中国留学から帰朝したとき、一体何を会得したのかという質問に対し、眼横鼻直と柔軟心を得たと言われた。まだ見ぬ頂の花を求めて取りに行くには、先ずその花の美しさに感動しなければならない。そうでなければ執着心もわかないし楽観的な気持ちにもなれない。まだ見ぬ花がどれ程美しいか、すなわち自分が取り組んでいる問題が、修行の本質的ものなのか、これを判断する美的感覚である。我々の場合、結局何もないという究極の処を感ずる心である。科学技術の究明も限りがないが、修行もようやく入ればようやく深しで、終わりはない。修行し続ける真っ只中にあって、光明を見失わぬ純な気持ちが何より貴いのである。

 

 

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