ざっと計算しても年十五話、それが二十六年だから、三百九十話である。よくぞ同じ話しにならぬようやってこられたと、我ながら感心する。しかしさすがにこのところスランプに陥り、もう何も出なくなってしまった。いつも坐禅会の始まる四月までに、一年の半分の八話くらいは予め作って文章にしておく。そうでもして置かないと、期限が近づいてせっぱ詰まると、頭がパニックになって、その苦しいことと言ったらないからだ。何でこんな苦しい思いをしなければならないのかと、気軽に引き受けた自分の浅はかさを思い知る。今更悔いても仕方のないことで、兎も角やり抜く以外にはない。まっ、ものは考えようで、窮したと言っても命まで取られるわけではなし、と腹を据えた。しかし一昨年、十一月にその年度が終了し、打ち上げ会が催された折り、来年度、話しのネタ切れになったときは、代わりに雑巾掛けをして頂きますと申し上げた。万一を考えて予防線を張ったのだ。それを聞いた会員達は「え~っ!」と絶句していたが、こうでも言っておかないと、こっちも困るので、一方的に宣言した。ところが不思議なことに、途端に心が軽やかになって、翌年四月までには驚くほど次々に話題が出てきて、あっという間に十数話出来上がった。小心者の私は、万一の場合雑巾掛けで切り抜けられるという安心感で心に余裕が出来たからである。
さて、翌年の十二月打ち上げ会の時に、昨年雑巾掛けで誤魔化そうとした私の怠慢を詫び、以降は石にかじり付いてでも、必ず話しをしますと宣言した。ところが今度はそう言った途端にスランプに陥り、全く話題が出てこなくなった。何とも皮肉な現象である。そこでどうしてこうなるのかいろいろ考えた。私が話しをする場合、どんな内容でもそれらが総て禅に繋がっていなければならない。ではその禅とは何かと言うことだが、それは「何もないと言うこと」である。何もないのなら、そのどこに禅があるのか、全く矛盾した話しだが、結局私達の何十年という修行は、何もないと言うことを突き詰めて行くことに他ならないのだ。これを理屈や道理で解釈しようとすると、訳が分からなくなる。道元禅師の詩に、「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪冴えて冷しかりけり」というのがある。単純に解釈すれば、何の変哲もない四季折々の風情を詠んだに過ぎないのだが、ここに真理が丸出しになっている。ここで、花に何か特別の意味を持たせたり、ほととぎすがどうの月が云々などと言い出したら、もはやそこに真理はない。
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