僧堂
 
 臨済宗約七千ケ寺、その中に三十七の専門道場(僧堂)がある。臨済のお坊さんは、いずれかの僧堂に入門して修行しなければならない。臨済宗十四派にそれぞれ本山があって、派に依って多少規則が違い、修行期間は最低一年で良かったり、三年以上いなければ駄目だったりといろいろだが、兎も角修行しなければ住職資格を取ることは出来ない。この僧堂の指導者を師家と言い、僧堂内の規矩に従い、起床から就寝に到るまで規律正しく行われる。会社に例えれば、道場ではいわば社長が師家なら、雲水の中で上位三名の役位は、さしずめ取締役である。その下に助警と言う役もあって、これは部長や課長に当たる。さらにその下に一般社員である平の雲水がいると言う構図である。全体の人数も各僧堂によってばらつきがあり、多人数のところは三十名以上だったり、数人という少人数のところもある。

さてこの専門道場だが、様々な問題が出てきて、処理に頭を痛めている。一つは現代っ子の日常と僧堂生活に余りのギャップがあって、付いていけない子供が沢山出てきたことである。例えば食事一つとっても、朝食は麦粥、昼食と夕食は麦飯・味噌汁・沢庵のみ、また起床時間も午前三時か三時半、寝具もたった一枚の蒲団に柏餅になって寝るなど、どれ一つとっても、のんべんだらりと普通人の生活をしてきた者では、勤まらない。その他にも徹底した上下関係や独特のしきたりなど、慣れるまでに一,二年掛かってしまう。特に粗食で日々肉体労働が続くため、気力も充実していなければ、忽ち気持ちが萎えて、逃げ出すことばかりを考えるようになる。これだけならまだしも、いじめも蔓延し、二十四時間一緒の生活だから、毎日が針の筵となり、ますます気が滅入る。しかしこれらは修行する上には当然のことで、ガタガタ言うほどではない。こういう困難を乗り越えてこそ一人前の禅僧となる事が出来るわけで、当然の試練である。しかし此処で二つ問題がある。先ず第一はこの様な道場での修行を始めるための基礎訓練が全く成されないまま、いきなり入門してくることである。所謂小僧生活無経験者が大半で、生まれて初めて麦飯を口にしてビックリ仰天、喉を通って行かなかったなどと言う笑えない話しになる。さらに問題を複雑にしているのは、僧堂修行の何たるかも分からない母親が、道場内のことにまで、しゃしゃり出てくることである。坐禅中つい居眠りをして警策で叩かれれば。背中に青アザが出来るくらいはごく当たり前のことで、それにいちいちギャ~ギャ~言われたのでは修行などやっていられない。この程度に本山直訴などというのまであるらしいから、開いた口が塞がらない。まるで学校で問題になっている、モンスターペアレンツである。こういう連中に限って、あっちこっちへ吹聴しまくるから、いい迷惑である。然も修行を住職資格を取得するための方便にしている上、そこに何ら羞じる気持ちもない。この様な困った状態を打破するために提案だが、資格を取るための道場と、純粋に修行するための道場との二種類に分離して、別個の組織にしたらいい。この二種類の道場出身者は、宗門での扱いも完全に差別化して、僧侶としての歩む道も区別する。その為には地域の中核を成すような大寺は、本山直轄管理とし、人材も本山が指名の者にする。僧堂入門前には一定期間所謂小僧修行を義務付け、修行教育カリュキラムを履修後に入門させる。現在のようにお経もろくに読めないような者の面倒までやらされるのでは堪ったものではない。宗門が安易に人材を受け入れ、結局勤まらず挫折して行くのは、本人にとっても不幸なことであり、組織としても迷惑千万なのである。


次ぎに各専門道場の伝統的なセクト主義の弊害である。日本社会の縦割り構造が此処でも蔓延して、劣性遺伝的体質から抜け出せないことである。僧堂とひとくちに言っても、どこも十五年二十年と、長期に亘って修行する人材が居るわけではない。二,三年も修行すれば、まるで卒業でもしたような顔をして胸を張って帰って行くのが現実である。例えそう言う中にあって長年修行を続けたとしても、良い意味での切磋琢磨がないから、ただ漫然と僧堂にいただけで、たいして中味のない奴が出来てしまう。僧堂は伝統を重んじるところだから、それぞれが恰も独立国のような具合で、他を寄せ付けず、自分たちだけで事を決めてしまう。法系などと便利な方便を付けては、兎も角セクト主義で凝り固まる。だから本当は良い人材が居なくとも、内輪で後任を選び、目出度しと片付けてしまう。一方では優秀な人材が余って、行き場のないまま、小庵に身を寄せて無為に日を過ごすと言う例が出てくる。何も僧堂に出て活躍するばかりが能ではないが、宗門全体としてみれば、これは人材の空費で、勿体ないことだ。現在やれ隠山派だ卓住派だなどと言っても、総じて白隠系なのだから、ケツの穴の小さいこと言わずに、ひろく臨済宗門全体の中から、優秀な人に僧堂の師家になって貰い、大いに活躍して貰いたいと思っている。これが僧堂間の良い刺激にもなり、僧堂同士の切磋琢磨にも成るから、相乗効果抜群となること間違いない。以上が未熟者の私見だが、いま寺離れがしきりに言われ、ジワジワと社会現象に成りつつある。この時期に、改めて宗門活性化のために一石を投じた次第である。

 

 

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