出家
 
尼僧堂が開単したとき、最初五人の掛搭者と一人の大姉(だいし)で始まった。大姉とは将来尼僧に成る希望者が、本当にやってゆけるかどうか見極めるために在俗のまま尼僧と同じ修行を経験することである。結局その大姉は一年後、尼僧には成りませんと言って下山した。これはいい加減な者だったからそうなったのではない。一年間本当に真面目に精進したのだ。そのまま雲水になって何年間か修行すれば、頭も良く性格も良かったから将来はきっと良い尼僧さんに成ったに違いない。しかしそうは成らなかった。下山することが一年間雲水と共に修行して得た結論だったのだ。今は社会人として働きながら近くの僧堂の坐禅会に通っているという。残念だが結局縁がなかったと言う外ない。

 別の例では、大学在学中から禅に興味を感じ、坐禅会に参加するうち、本格的修行を志すようになり、ついに雲水となって僧堂に掛搭し、長く修行した結果、今ではある派の管長や、専門道場の師家に成った人もいる。勿論本人の努力もさることながら、これも縁と言うほかない。このように人には不思議な縁があって、その縁に導かれるように歩むという側面がある。また一方では幾たびも良い縁がありながら、自分の考えを貫くために全て拒否して、今なお独自の生き方をしている人もいる。禅僧の場合何も大寺の住職に成るばかりが能ではない。たとえ山奥の小庵で埋もれるような生き方をしていても、一個の禅僧として立派な生き方はある。まっ、社会的には人に知られることはないが。ミーハーにキャアキャア言われて悦に入っているような者より余程この生き方の方が素晴らしい。一般社会では少しでも名前が知られて、「きゃ~っ、あの人何の誰さんじゃない?」などと言われるようになれば、それで良しと言うことになるのかもしれないが、そんな人気は一時のもので幻のようなものである。つい最近有名な女優さんが亡くなられたが、最後は医療費も払えず借金したまま死んでいったと書いてあった。幾ら派手な生活をしていたと言っても、それも一時で、最後がこれでは空しい感じがする。つまり自分の生き方をしっかり保って、時代や世間の風に流されず、地に足をつけた生き方考え方が大切だと言うことである。
それにしても世の中には運の良い者と運の悪い者とある。私の修行仲間に今頃は当然然るべき道場の師家になって八面六臂の大活躍をして当然という男が居る。こう言っては何だが、彼に比べればろくな修行もしていないのに老師と言われている者はごまんと居る。どうしてこうなってしまったのか、人生の不公平さを思う。一つには我が強いと言うことも邪魔をしているのかも知れない。どだい我が強くなければ修行そのものも成り立たないのだから、この辺の使い分けが必要なのである。それといささか謙虚さに欠けるところがあったように思う。人間自分一人だけの力には限界がある。どこかで先輩に、「あいつはなかなか見所がある。良いところを持っているな~」と、引き立てて貰ってこそ道も開けるというものである。
僧堂も長く居るといろいろな人を見る。片や過分な出世をする者、一方努力の甲斐無く一般寺院で殆ど人に知られることもなく、埋もれてたまま生涯を終わる者もいる。折角永年修行したのだから、その修行が何かの形で世のため人のために発揮されてこそ、修行してきた甲斐も有るというものである。誠に惜しいことである。そこでこんなことを思っている。現在臨済宗は十四の派に分かれて、各本山は独自のやり方で宗門経営をしている。つまり一つの県に十四の市町村があるようなものである。それぞれが独自の方針でやっている。これは行政という側面から見た話で、修行という観点から言えば、総じて白隠下に収まり、区別はない。事実、派を横断して人材は自由に行き来しており、既に何派だからなどと言うのは有名無実で、オープンになっている。

そこで提案だが、十四派全体の中で有為な人材を確保し、有能な人から順に十四派三十六ヶ僧堂に配分したら如何なものかと思う。そう言うことを管理し選定する独立の機関を設けて、公平に分配したら良いのではないか。現状は各専門道場がセクト主義に凝り固まって、後任師家を誰にするかは自分たちの特権のように誤解している。然るべき師匠が生前きちんと後継者を決めている場合は良いが、突然遷化され、誰も何も聞いていない場合などは、師家選定機関が中心になって後任を決める制度である。公平に有能な人材が世に出て活躍できるようにして欲しい。ろくな修行もせずに大寺の住職に収まる弊害は、世襲制度では如何ともし難いが、専門道場は世襲制ではないのだから、有能な人材を眠らせることなく活用して行く必要があるのではないかと思うのである。

 

 

ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.