別の例では、大学在学中から禅に興味を感じ、坐禅会に参加するうち、本格的修行を志すようになり、ついに雲水となって僧堂に掛搭し、長く修行した結果、今ではある派の管長や、専門道場の師家に成った人もいる。勿論本人の努力もさることながら、これも縁と言うほかない。このように人には不思議な縁があって、その縁に導かれるように歩むという側面がある。また一方では幾たびも良い縁がありながら、自分の考えを貫くために全て拒否して、今なお独自の生き方をしている人もいる。禅僧の場合何も大寺の住職に成るばかりが能ではない。たとえ山奥の小庵で埋もれるような生き方をしていても、一個の禅僧として立派な生き方はある。まっ、社会的には人に知られることはないが。ミーハーにキャアキャア言われて悦に入っているような者より余程この生き方の方が素晴らしい。一般社会では少しでも名前が知られて、「きゃ~っ、あの人何の誰さんじゃない?」などと言われるようになれば、それで良しと言うことになるのかもしれないが、そんな人気は一時のもので幻のようなものである。つい最近有名な女優さんが亡くなられたが、最後は医療費も払えず借金したまま死んでいったと書いてあった。幾ら派手な生活をしていたと言っても、それも一時で、最後がこれでは空しい感じがする。つまり自分の生き方をしっかり保って、時代や世間の風に流されず、地に足をつけた生き方考え方が大切だと言うことである。
それにしても世の中には運の良い者と運の悪い者とある。私の修行仲間に今頃は当然然るべき道場の師家になって八面六臂の大活躍をして当然という男が居る。こう言っては何だが、彼に比べればろくな修行もしていないのに老師と言われている者はごまんと居る。どうしてこうなってしまったのか、人生の不公平さを思う。一つには我が強いと言うことも邪魔をしているのかも知れない。どだい我が強くなければ修行そのものも成り立たないのだから、この辺の使い分けが必要なのである。それといささか謙虚さに欠けるところがあったように思う。人間自分一人だけの力には限界がある。どこかで先輩に、「あいつはなかなか見所がある。良いところを持っているな~」と、引き立てて貰ってこそ道も開けるというものである。
僧堂も長く居るといろいろな人を見る。片や過分な出世をする者、一方努力の甲斐無く一般寺院で殆ど人に知られることもなく、埋もれてたまま生涯を終わる者もいる。折角永年修行したのだから、その修行が何かの形で世のため人のために発揮されてこそ、修行してきた甲斐も有るというものである。誠に惜しいことである。そこでこんなことを思っている。現在臨済宗は十四の派に分かれて、各本山は独自のやり方で宗門経営をしている。つまり一つの県に十四の市町村があるようなものである。それぞれが独自の方針でやっている。これは行政という側面から見た話で、修行という観点から言えば、総じて白隠下に収まり、区別はない。事実、派を横断して人材は自由に行き来しており、既に何派だからなどと言うのは有名無実で、オープンになっている。
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