六十棒
 
 臨済宗の宗祖、臨済禅師は今から約千百年ほど前の中国唐の末期、鎮州のこ沱河の渡し場近く、川のほとりに「臨済院」と名付けられた小院に住したことからこのように呼ばれた。若い頃、黄檗禅師のところで修行していたのだが、行業純一、几帳面で、することなすこと真っ正直であった。ごまかしが一つもないと言うのが臨済禅師の一生を貫いた精神である。世間では羊頭をかけて狗肉を売ると言うが、立派そうな看板を掛けていても中味はぐずぐずということがある。知恵才覚を弄し表面(おもてずら)だけ見栄え良く飾っても化けの皮はすぐ剥がれる。何事も馬鹿になり真っ正直が一番である。妙心寺の開山無相大師は五十四歳にもなって、京都に大灯国師の居られることを知って、鎌倉からまっしぐらに東海道、京都を目指したと言われている。道を求めるに純、世間の体裁を繕わない、禅ではこの行業純一さが一番尊いのである。

 さて臨済禅師は黄檗禅師のところで坐禅も作務も夜坐も真面目にやっているのだが一向に参禅はしない。当時黄檗のところには三百とも五百とも言われるほどの沢山の雲水が居た。その中でも臨済は異彩を放っていたと言う。とかく大勢が集まっての修行となると、真面目な者はこつこつやるが、そうでない者はいくらでも怠けることが出来る。そんな中でも他に抜きん出て修行したのが臨済禅師だったのである。首座(しゅそ)の睦州和尚は、「この雲水、歳は若いがどうもみんなと違うようじゃ。」黙々として馬鹿になっているところが異彩を放っていたのだ。つまり他の者とは願心が違うのである。そこである日、「お前さんはここに来て何年になるかな」「はい、ここへ参りましてからもう三年になります」「ほう、そうか。三年の間に老師の部屋にいっぺんでも行ったことがあるかな」つまりこれは三年の間に参禅したことがあるかという質問である。そう聞かれて「まだいっぺんも行っておりません。大体何を言って行ったらいいのかそれさえも分かりません。」大疑のもとに大悟ありというが、人生の意味とは何ぞや人間は何のために生まれてきたのか、いったい何をすれば良いというのか等々、大いなる疑問を持つことが肝心である。疑問があるから進歩して行くのだが、若い臨済禅師は何も尋ねることもなく三年間一度も参禅しなかったのである。これを聞いた首座は「それじゃ~な~、如何なるか是れ仏法的々の大意と言って尋ねてみるがいい」。これは仏法の一番大事なところ、ぎりぎりの所は何か?お釈迦様は四十九年の間、説かれたお経は五千四十八巻もあるという。それほど膨大な教えのぎりぎりの所を一口で言って貰いたいという質問である。そこで臨済は教えられたとおり、黄檗の所へ行って、「如何なるか是れ仏法的々の大意」と言った。言葉が終わらぬうちに、黄檗は持っていた竹篦(しっぺい)でビシッビシッと殴った。一頓の棒と言って、いっぺんに二十回殴ることをいい、臨済は一度に背中を二十回ほど殴られてしまった。何の事やらさっぱり分からない。すごすごと引き下がると、首座が待ちかまえていて、「どんな具合だったかな?」「いや、どうもこうもありません」「そうか、叩かれたか。そんなことでへこたれてはいかん。もういっぺん行ってこい」。臨済はまた真っ正直に、黄檗のところへ行って、「如何なるか仏法的々の大意」と同じ質問をすると、質問が言い終わらぬうちに、前と同様背中を酷く打ちのめされた。すごすごと帰ると、「もういっぺん行ってこい」と言うので、三度同じ事をやった。一回につき二〇棒、合わせて六〇棒を食らわされてしまった。そこで臨済は首座に向かって、「ご親切に引っ張って頂きましたが、三度質問をして三度とも叩かれました。私のような愚鈍な者には仏法は分かりません。此処にいても見込みはないと思いますのでお暇(いとま)いたします」。臨済ほどの大和尚でも、若い頃はこういうことがあるものだ。臨済禅師の話に私ごとを持ち出すのは憚られることだが、入門当初、仲間はどんどんと公案が通って涼しい顔をしているのに、一年も二年も余分にかかった。今日になってみると、やっぱり苦労をより多くした方が身のためになる。自分を偽らず真っ正直にやることである。

「それならば黙って出て行ってはいかん。黄檗和尚に挨拶をしてから行きなさい」。そう注意を与えると、首座は臨済が挨拶に行く先きに黄檗のところへ行き、「このごろ老師のところへ三度参禅に参りましたあの若い雲水はなかなか見所のある者です。お暇してよそへ行きたいと申しておりますが、しっかり叩き上げたならば必ず一本の大樹となって多くの人たちの涼陰となります。ご挨拶に参りましたら、何卒よろしくご指導下さい」。やがて臨済は言われた通り挨拶に行った。すると黄檗は、「無理には止めん。しかしよそへ行ってはいかん。高安に兄弟分の大愚というのが居るから、そこへ行きなさい」。臨済はこの大愚を訪ね、今までのいきさつを話し、三度も叩かれ、一体私の何処が間違っていたのでしょうかと言うと、「天下の黄檗が何と婆(ばば)が孫(まご)可愛がるようなことをして」と言われた瞬間にがらりと悟りを開いた。再び黄檗のもとへ戻り、ついに臨済宗の宗祖となられたのである。

 

 

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