ある調査によれば携帯電話の時から利用時間が二倍に増えたと答えた人が四割を超えたそうである。二倍とはいかないまでも、利用時間が増えたという人は実に七割以上である。 さて平日に本を読む時間の方はどうかと言えば、二十代男性が二十一分、女性が十八分、全世代平均ではたった十三分である。人の営みは、一日二十四時間の消費活動で、生きて行くために欠かせない食事とか睡眠の一方で、自由な時間をどう使うか、それが自分を磨くこと、生活を豊かにすることに繋がる。その一つが新聞や本、専門領域の雑誌などの活字を読むことである。活字が完全にネットに取って代わられるかどうかは別にして、一日を浸食しつつあるネット時間が人々の思考や行動に影響を与えていてもおかしくない。松岡正剛氏によれば、「世の中の情報化の流れは難問も軽問も、深い現象も浅い現象も、同じようにメニュー化された情報は奥行きや大小のないものとして整理していった。一万人が亡くなる事件も、一人のおばあさんが孤独死することも情報として同じ扱いになってしまった。この傾向は機器そのもののスモールサイズ化によって加速され、ついには百四十字というツイッターの文字数になってしまった」。身近な例を挙げれば、携帯電話が普及し始めた頃、電話番号を覚えられなくなったと言う話を良く耳にした。まさに記憶力の低下を示す顕著な例である。そればかりではない、地図を画面に示してくれるカーナビゲーションがほとんどの車に付くようになり、頭の中から地図が消えてしまったような感じがする。情報の洪水の中に生きながら、人々は事の軽重が分からなくなり、思考力が摩滅し衰退しているのである。
藤原正彦氏は、「若い人だけではなく、七十代くらいまで本を読まなくなり、ものを考えずに生きている」と手厳しい。また「文学、芸術、思想、歴史などの教養は、確かに腹の足しにはならない。しかし人は活字を通じてそれらに触れることで時空を超え物事の本質を見抜く大局観や人間観、長期的視野を身に着けてきた。インターネットでは情報を〝身に着ける〟だけ。
時空を超えるという点でも、活字ほどの深さがない。つまり教養というものはインターネットでは身に着かないということである」。
平たく言えば教養とは人が生きる術(すべ)である。人生でぶつからさまざまな問題を解決する手立てといえる。だが現代人はその生きる術さえ、すべてネットから引き出せるという感覚、いや錯覚に陥っている。教養がなくとも生活に困らないのだ。文字を読むと言うことに限定して言えば、電子書籍の普及という現実がある。活字の本と何が違うのか。活字の本は表紙があって、目次、本文、あとがき、奥付がある。このパッケージ力が活字の世界の奥行き感を生んでいる。紙の新聞に政治面や社会面などの面があり、大中小の見出しがあることで濃淡を付けているのと同じである。だが電子書籍は、こうしたパッケージ性を平面化してしまう。衣食にたとえると、普段着、ファーストフードだけで済ましてしまうことである。新聞は見出しによって読んだり読まなかったりする。つまり読むという意識が強いから、書いてあることが頭にとどまる。理解しにくい箇所は繰り返し読む。それが、「考える」ことに繋がるのである。
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